2016年12月29日木曜日

謎の恐竜基地

早すぎた超豪華版ウルトラファイト。まだウルトラマンが奇っ怪な宇宙人然としてた頃なので高笑いも全く不自然ではない。というか逆にアトラク用ダメ着グルミとしても受け止める事が出来てジラースのパチモン感と整合している。ゆえにゴジラ対ウルトラマン世紀の一戦は大いに盛り上がる。少年探偵団っぽい科特隊ワッペンが正に今回の一大イベントを象徴する子供たち垂涎の記念品に見える。贅沢に使われるオプチカルプリンターシーンは前期ウルトラファイトのバンクフィルム使用を思わせ正に仁義なきウルトラ頂上作戦第1号。

2016年12月28日水曜日

白い顔

湖畔の洋館。地下の実験室。父親を狂わせていたのは全てこの定番の呪われた場、こそ、だった。母は娘を置いて逃げたのではないだろう。きっと母親は、自殺したか何かで、この邸その物と言える存在になり、亡骸は湖に沈められた。アッシャー家の崩壊を思わせて凄絶。だから、そこから何もかもが狂った。洋館の炎上は罪の浄化を具現し、その特撮は悲しく美しい。ラストの残されし者同志の父娘の抱擁は泣ける。sriの窓から見えるビル街は都会の儚さを具現して、そのミニチュアは矢張、美しい。逆にレーザー光線の光学特撮は見せない。そこが本作にリアルな重量級犯罪感を与え素晴らしい。見せる所と暗示する所が絶妙だ。醜さがテーマゆえか、この上も無く美しい作品だ。亡き母の亡霊が演奏しててもおかしくないピアノ。それをテープレコードのトリックと重ねる。この怪奇大作戦前期特有の人体破壊ホラーと乱歩趣味の絶妙ブレンドは本当に捨てがたい。

2016年12月25日日曜日

美女と液体人間

暴力もない。血の一滴も流れない。けれども、このうえもなくバイオレンスを感じさせる。みどころは、人体破壊のみ。血まみれ東映バイオレンスの良きライバルでホラースラッシャーの先駆。それこそが、本作の、正体。精密な東宝特撮だからこそなしえたカラーワイドスクリーンで見る華麗なる人体破壊描写。そのカタルシス。ダラっとドロっとした退屈さ。だからこそのクライマックスが。ひとつは、漂流船に乗り込むシーン。ひとつは、警官隊がキャバレーに突入するシーン。そこに現れる液体人間。おかげで現場は、もうドタバタの、バイオレンスまみれに。笑いさえこみあげてきそう。用意周到に時間をかけて計算されつくした画面設計だが、まるで、仁義なき戦い、の手持ちカメラ撮影のデイリのシーンでも見ているかのような、カオスなメマイ、さえおぼえる。ニンゲンが、あっという間に溶けるって、スゴイ。

2016年12月23日金曜日

恐怖のルート87

恐怖のルート87。タイトルからしてアメリカンニューシネマ時代のB級ホラーみたい。実に良い。飛行する怪獣がどこからともなく現れ国道上の車両を襲うだけの不条理さも。国道沿いの救護所が出てくるが貧相さと事務的な施療ぶりが不吉な場所の定番。ハイウェイ沿いの寂れたドラッグストアやドライブインを連想させハヤタの草むらへの逃走が実に萌える。石像も名作エクソシストを連想させる。少年をホームに訪ねる件はカラス神父が老母をホームに訪ねる件に重なって。ホラーはホラーでも乾いたアメリカンゴシックさのカーホラー。金城の沖縄とアメリカ南部は風土的にどこか通じるのかも。怪獣も後のクルマニクラスとかと違い実体がしっかりあってファンタジーに流れないでしっかりモンスター物を固持。石像と。高原から眠りを覚ます怪獣の相似は高度な偶然でまとめ。さすがの脚本。ヒドラ。どこかメキシコの山の奥ででも静かに眠りについてほしい。アキコのしょったセリフのオチもキュートだし。ウルトラマン。金城節が鮮やかな一本。ポーな同じくカーホラーの。qのクモ男爵が観たくなる。

2016年12月22日木曜日

故郷は地球

ジャミラ。悲劇の平和の巨人という点。フラバラのフランケンシュタインを思わせる。子供の時には彼を怪獣と馬鹿にして。セーターを被り真似をした。残酷な事をしたと後悔している。彼の顔は同じ西洋人ならパッと区別がつく程で。個人の人間の面影をしっかり残しているし。傴になって全身がひび割れてしまっているが。怪獣なんかではなく巨大化した人間体なのは自明なはず。なのに我々は。思い切り怪獣に寄せたベクトルでしか見れなくなってしまっていた。当時は。でも今は。人間衛星。悲しい響きだ。彼が乗っていた円盤形のロケットから。ミステリーゾーンの幻の宇宙船を思い出してしまった。墜落した人間衛星が成仏できず。永遠に軌道上をさまよい続けるという物。国際平和会議。偽善だ。工場や学園や原発。誘致の利権で見せ掛けの発展を遂げた。地方の企業城下町のウスッペラな雰囲気が漂う。犬神家っぽい陰鬱な村。避難民が抱く柱時計に業の深さと差別の連鎖を見てしまう。本作でのウルトラマンは登場シーンも短く。格闘も殆どしない。冷たいロボット兵器ソノモノに見える。いっそのこと。登場させず人工降雨ミサイルでトドメった方が良かったか。超問題作。

2016年12月20日火曜日

世界大戦争

富士山ごしの東京方面をおおいつくすキノコ雲。これは現実ではないが、われわれは、よく眼に焼きつけねば。そして、ことあるごとに観かえさねば。とくに特撮ファンならば。みなれたタイプの特撮シーンが、これほどまでの存在感で、まがまがしく見えた作品が、ほかにあっただろうか。これほどまでに無力感、無常感で視覚メッセージたりえたことが、ほかにあっただろうか。善人役でならした俳優が極悪人役で登場したり。ひとなつっこい愛されレギュラーキャラがドラマ中盤で悲劇的に死んだり。そんなバッド311な想定外感。誤作動感。資本主義のグローバル化と兵器の自動化によって本作の脅威は古くなるどころか。その点が、まず恐ろしい。滅亡の発端が狂気や絶対悪の独裁者個人ではなくて善意のきわめて庶民的人間的な雰囲気の現場なのも。連邦軍同盟軍とされているだけで日本以外の為政者や軍の司令官は、国民や兵士の前にさえ、まったく姿を見せない。その動向を知る手だてはラジオや無線での音声のみ。しかし、それがインターネット時代の今。ものすごく厭な皮膚感覚レベルのリアリティで筆者の、わたしには、迫ってくるのだ。筆者の、わたし自身、アイドルやスポーツチームや株や政局を、他人の不幸を、まるでストーカーのようにsns上に四六時中追っかけてばかりで、むなしい日常でしかないからだろうか。

2016年12月19日月曜日

キングコングの逆襲

ドクターフーの北極基地の奥がエレメントエックス採掘の坑道になってたのが萌えた。死霊のえじきの基地も奥が坑道になってて実験材料つまり資源としてのゾンビを貯蔵してたからだ。コングに催眠装置を埋め込み飼い慣らそうとしてんのも死霊のえじきのバブ氏と重なる。いわんや超巨大な昇降エレベーターのビジュアル。

2016年12月18日日曜日

24年目の復讐

戦時怪談として見直すと非常に整合する。ベトナム戦争時の横須賀。ここも戦場なのだ。水棲兵士の伝説に憑かれた男が隊を離れる。彼は姉を戦争で喪っている。そして未だに良心の呵責に苦しんでいる。それが異常な水棲兵士への執着をもたらした。普段は大人しい男が暴力沙汰を起こし失踪。極めて必然だった。失踪した男を探す隊の捜索は戦場の奥の前の戦争の伝説の戦地に及ぶ。追い詰められた水棲兵士。全身にダイナマイトを巻き付け自爆する。この感じ。どっかで見たような。そう。地獄の黙示録。巨大な戦艦群を目前に燃え上がる水棲兵士のボート。地獄の黙示録の闇夜の殲滅爆撃と同様。ニヒリズムはピーク。反戦意識など消し飛ぶ虚無感。それこそが戦争の本体と言わんばかり。それぞれの王国のパノラマが猿島要塞跡地でありアンコールワット風なのもイメージがオーバーラップし重い。だからこそエンディングは救いのギャグだったのだろう。

2016年12月17日土曜日

吸血地獄

暴力としての吸血。旧来、怪奇映画の吸血シーンそれは血の接吻と呼ばれたりして擬似性交っぽく描かれてきた。が本作は違う。血こそ一滴も流れない。が。そのゴクゴクという音。ほぼ一滴も残さずという発言。あのメイク。かなりショッキングだ。コドモムケユエニソウナッタ。明示こそされないが連ねると、ある種の相当に過激な人体破壊描写だ。だとしたら、つまり意図せず本作はムードよりリアル、怪奇よりホラーに急接近してしまっている。アクロバチックな作風だ。そして本作は落ちぶれ果てた若い男女を描いている。ウミタダレタ生活は松竹ヌーベルバーグで日活ロマンポルノだ。しかし、そう思わせてパートナーの死別と吸血鬼化。一種のトンデモジュブナイルへと雪崩れ込む。コドモムケユエニソウセザルヲエナカッタ。結果。ホテルでの四人のカケアイは、その照明の物理的暗さだけにトドマラズ実に下世話でデバガメチック。そのドタバタなヤンチャっぷりは相当に楽しい。制限制約の中での冒険が意図せずトンデモな結果を出した好例。暴力としての吸血とチカマツ世界のドタバタ喜劇化。トンデモない大発明。まさに。怪奇。大作戦。の成果。

2016年12月10日土曜日

宇宙大怪獣ドゴラ

石が降る。その旧約聖書めく事象のおかげで本作は陳腐なsfに終わるのをしっかりと免れている。実はこれはこれで実に凄いことなのだ。しっかりと暗黒宇宙神話のヤバいダークマター感を撒き散らしクトゥルーやウルトラqに連なる世にも貴重なコズミックホラーの先駆ダークファンタジーの傑作たりえている。もちろん特撮によるところ大なるはせんこくごしょうち。ただし、それだけではダークファンタジーたりえない。単なるミステリアスな悪女を越えて暗黒宇宙の邪神にさえ、つかえるかの如くのダークヒロインな巫女。そうとまで思わせてくれる程の若林映子その風貌とその演技それらの素晴らしさなくしては絶対にダークファンタジーたりえなかったであろう。ガラモンの逆襲の義那道夫と同様に。さてさて総じて、もともこもない大怪獣なる、その陳腐なタイトルは、ひどく災いしてドゴラの宇宙知性が動物なみ怪獣なみと先入してしまいそうになる。たしかに劇中ドゴラの振る舞いはただの捕食行動っぽくはなってはいる。しかし遥かに人智を越えた暗黒宇宙の邪神スケールの知性。そんなヤバい何かが、ドゴラの背後に感じられはしないだろうか。宇宙細胞なるものが、われわれの宇宙の原子や分子で構成されているとは限らない。未知の宇宙の暗黒物質や反物質で構成されているかもしれないのだ。そして、それはそれ自身、精神と物質未分化の運動原理かもしれないのだ。怪獣では片付けられないような何かかもしれないのだ。ドゴラのカタチに使徒な気配を感じる方ならば是非。一度一歩踏み込んで世にも香ばしいダークファンタジー臭を禍々しくも本作の端々に強引にでも嗅いでみるのも一興かも。とにかく、このドゴラと、その物語には古代生物っぽい東宝怪獣を越えて既にウルトラqな孤高のモダンさが、うかがえ筆者は今見ても、ちっとも古さを感じないのだ。むしろ新しい。

2016年12月4日日曜日

フランケンシュタイン対地底怪獣

一見平板なシナリオに見えるけれど以外と巧妙だ。両モンスター共いつどこに現れるかが分からない。そのサスペンス。このサスペンス。海が舞台で使われるのが常套で効果も満点よく使われる。しかし本作は山である。ここで地底怪獣の設定が活きる。まるで瞬間移動のように神出鬼没。そしてココが重要。土屋嘉男の役柄が潜水艦上がりの石油掘削技術者だという点。実に巧い。一方フランケンシュタインの方は柳田国男の山人の概念を付与されていると見て間違いない。それも突飛ではない。フランケンシュタインの元となった西洋人の死体は多分スイスやドイツの山岳地帯の出身。大いに。有り得る事だからだ。心臓だけになってもその身体記憶は如何ばかりか。山の奥の洞窟を見つける能力や塩の道などと学術視される獣道や暗い谷底深くの地図にも載らない複雑な隘路を察知する能力。備わっていて不思議はない。この辺の描写は本作にも次作のサンダの振る舞いにも出てくる。この神出鬼没の両者プラス人間側の追跡の攻防が本作の肝だ。次作のような対自衛隊の攻防の派手さはないがどこか。復讐するは我にあり。とか。指名手配犯映画のようなサスペンスがあって個人的には次作よりも本作の方が好きだ。さて書きに書きまくってきた本作の事は今回でそろそろ終わりにしたい。そこで最後に。本作の音響の世界の素晴らしさを。エレキインストと定番伊福部節の対比が味わい深く実に濃密な90分。まるでデヴィッドボウイのロウのようなニューウェーブなサントラ。まずは座頭市モードのロードムービー寄りの荒涼かつ哀愁の伊福部が炸裂している点。パリテキサス張りのアンビエントブルースなメロディは耳に残る。 そして序盤に通奏低音のように使われる重苦しいフランケンシュタインの心臓の鼓動。最早これは音楽であり音楽であるところのゴジラの咆哮と同次元のフランケンシュタインその物を象徴するアイコン。シルシ。なのだ。確かにドゴラの流用かも知れない。ガイラのキシェーッの方がウケるかも知れない。しかし本作の。この心臓音は深い。フランケンシュタインその正体はカタチではなく現象である。波動だ波だ音だ。と言うこの形而上的な神話的な遺伝子工学的な量子物理学的な凄さ素晴らしさ。正に生命とは何かを身体感覚。ヘビメタフリージャズノイズインダストリアル次元で説いているのではなかろうかとさえ思えてくる。それは脳髄ではなく自律的な筋肉のカタマリ。そう生命とは頭でっかちな物では無く実に素朴なキン肉の躍動その物だと言う事。放射能をモノトモセズ廃墟の中を走り回って遊んでいた幼生フランケンシュタイン。それは裸足のゲンのハッチャケっぷりに通じていると言う事。

2016年12月3日土曜日

フランケンシュタイン対地底怪獣

ウルトラマンはガンダムやエヴァンゲリオンやウルトラセブンのようなリアルな悩めるヒーローではない。ウルトラマンは宇宙人の宇宙船と地球人の宇宙船の衝突というあり得ない惨劇その中での死から誕生した。キセキでありグウワであり別世界物語である。そのことを忘れてはならない。ここが水爆実験から誕生したゴジラと同様。正邪まるごと飲み込んだヒーローを越えたヒーロー。ダークヒーローたるユエンなのだ。確かにゴジラにもウルトラマンにも悩めるヒーロー成長するヒーローとしての変節は刻み込まれている。しかしそれだけだと今の時代にまでは残れてはいないはず。巨人の星の主人公とあしたのジョーの主人公。どこが違うか。あしたのジョーは力石をその手で死に至らしめたという最悪の惨禍としての青春の終わりのその瞬間にダークヒーロー足り得。だからこそ。その後のジョーの物語。どこかそこはかとその登場人物すべて狂気にじませ永遠の妖しい魅力。オーラを放ち続けているのだ。本作のダークヒーローフランケンシュタインの誕生も人類史の一大惨禍たる原爆だった。そう誰もが以下の事を。忘れていたのだ。ウルトラマンも実はダークヒーローだったことを。つまり本作の最大の価値はそのことをつねに思い出させてくれウルトラマン神話の原点中の原点たり続けているところにあるといってまさに過言ではない。さらにここでいうウルトラマン神話とはウルトラマンが正義とか悪とかではなく根本的にメイフマドウな暗黒宇宙の暗黒物質のアナザーサイドな物理法則アナザーサイドな精神法則に負って産まれ行動しているということ。それを説いている。あの名作エイリアンさえクトゥルー神話に負っていることを忘れて観るならば面白さはサンブンノイチだということ。エイリアン2信者やサンガイ自衛隊信者は筆者がどうかその立場。現実の政治や現実の宗教などとは無縁の。はっきりいってほぼトンデモなメタな自分だけの仮想宗教の立場。からものを言っていることを。この日用映画劇場を書いていることを。察し批判しないでいただきたい。ワタシもアナタガタを批判シナイカラ。

2016年12月1日木曜日

フランケンシュタイン対地底怪獣

書き出したら止まんなくなっちゃった。笑。あと土屋嘉男がイイね。高島忠夫ニックアダムス水野久美。特に水野久美が。何か皆さんマットの隊員のよう。ニックは南隊員。高島は岸田隊員。そしてキリッとした母性と言うか銀座のママ感が実に良い水野久美は丘隊員。そして土屋嘉男は加藤隊長に変わって登場した伊吹隊長。本作での登場の仕方がまるで伊吹隊長の初登場の時とか郷が窮地に陥った時に登場する伊吹隊長のようでメチャメチャ格好イイ。まさにこのレギュラー布陣で連続ドラマ化したら。sriならぬ放射能やバイオハザード対策組織。毎回違ったバイオ怪獣。常に移動し山の中に住み彼らの窮地にフラリ現れるフランケンシュタイン。怪奇大作戦並みに永久保存人類遺産。

2016年11月29日火曜日

フランケンシュタイン対地底怪獣

なぜか本作にひかれる自分がいる。小学校時代あれほどのめりこんだはずなのに結果怪獣映画ファンを貫き通せずいつのまにかロックに浮気してしまっていたという中途半端な特撮ファンという出自をもつ自分。だからだろうか。理由なき反抗のニックアダムス。坊っちゃんシリーズの高島忠夫。ロカビリアンでこそないが両者ちょっと屈折した青春映画で名をなした出自は明らかに青春スターだ。そしてなにより無名だがフランケンシュタインを演じた古畑弘二。彼は本作によって悲運だが間違いなく青春映画スターとして歴史に名を残した。間違いはない。そう本作は間違いなく青春映画だ。今風にいうと童貞映画。青春映画におけるドーテーとは間違いなく形而上的にみると怪物的存在にほかならない。そういう演技が要求される。彼は両青春映画スターの間で水野久美を相手に見事な一生一代のドーテー演技を見せている。間違いはない。言葉なくその眼と身体のみで複雑な心理を表現している。これをロックといわずして青春といわずしてなんとする。

2016年11月28日月曜日

怪獣大戦争

キングギドラはモニター映像としてだし。ゴジラとラドンは冬眠姿だし。怪獣達の初登場シーンそのカタルシスの無さは半端無い。初戦の舞台もセット感バリバリだし。ここまでくるとタイトルの怪獣大戦争。スタッフの悪意に満ちた皮肉としか思えない。お陰で相対的に人間ドラマが前面に。それどころか子供が見るにはアダルト過ぎる濃密な男と女の空気感さえ。大人になった今だからわかる。土屋嘉男の変態演技。中二病を先取りして余りあるし。ニックアダムスのコネリー007張りのセクシーさの前には水野久美さえ清純に見える。前作がa級なローマの休日なら。本作はよくあるチョット変な日本を舞台にしたエキゾチックなb級アバンチュール映画。そんな風に見直してみるとその演技合戦はまれにみる面白さだ。怪獣達も負けてはいない。試合開始のゴングを待つゴジラ。座り込んで手の甲で首元の汗を拭う。萌える。ラドンもいつになく人格いや獣格を感じさせてくれる。なるほど。人間怪獣入り乱れてのその怪物的演技合戦。そういう意味での大戦争だったのか。笑。

2016年11月25日金曜日

小さな故意の物語

サイコキネシス少女の殺人としてコチラの観る視点をほんのチョットずらすだけで感動の青春純愛ストーリーが果てしなくオゾマシイsfホラーへとダマシ絵のように反転する。その瞬間のカタルシス。そうなるとデバガメの担任教師の存在がガゼンいきてくる。青春=ホラー。持論の良質の見本。少女の右手は悪魔の右手か。彼女はサイコキネシス。それともサイコパス。オムニバス東野圭吾ミステリーズ第八話。

2016年11月20日日曜日

袖志の女

では、なぜ一刀は死を覚悟したコクゾーにゲセヌかたちで勝利できたのか。コクゾーの電送剣界においては勝利なるものは生命力や無や空や偶然ギリギリのラインで決するとされる。コクゾー戦の後、深手を負った一刀を村の女達が敵討ちせんと刀を向けるが、そこでの勝負の決し方も何故そうなったかを見せない演出になっている。一刀が返り討ちにしたのか女達が暗黙裏に一刀の余りにも深い女達への共感の思いを感知し自刃したのか。そう、このギリギリの線での自殺か他殺か幇助かという事象。これを犯罪のトリックとして使った作品がある。大岡昇平の事件だ。映画化もされた。実は本エピソード袖志の女はトンデモなsf作品めいて見えるけれど、そのテーマは大岡昇平作事件と同じものであってトンデモでも何でもなく実に深い人間の根源さえ問うものだったのだ。加害者と被害者の余りにも深い共感のせいで自殺か他殺かが最早、物的証拠ではボーダー判別できないレベルの犯罪。わかりやすい例で言えば心中のカタワレが生き残ってしまうケースである。彼は彼女は殺人者なのか犯罪者なのかギリギリのボーダーでしか最早、語ることができない。もう一つは帰ってきたウルトラマンの郷秀樹のように自らの身を犠牲にして何物かを救う行為。これは自殺なのか事故なのか災害なのか。その結果の死。前者が純愛ゆえの心中ならば、これは愛国心ゆえの特攻が例と成ろう。そこからトンデモないドラマが生まれる。トンデモない謎の闇。闇ゆえに安易なヒューマニズムを越える実存の可能性のヒカリもそこにはある。どうしてもヒロイックなものカッコイイものを作り手も観る側も求めてしまう業の深いジャンルとしての特撮や時代劇などという物は矢張、最終的には、その境地を目指すものなのだろうか。

2016年11月16日水曜日

袖志の女

中丸電送人間忠雄の登場。いわく自身は無であり空であり切ろうとすれば己を切ることになると。なるほど何やら部分的電送がすでに始まっているらしく断続的に不規則な光をその身体から放っている。勝負の決し方も不条理極まりない。刀だけが電送され突き刺さる。

2016年11月15日火曜日

哀燈流し

にしても本ドラマシリーズ子連れ狼。悪人だらけだし国中荒れに荒れている。柳生の暗躍。徳川の腐敗。宿場宿場がどこも広域組織暴力団の勢力抗争下のような荒れよう。毎週怪獣出現のウルトラの大人版時代劇版と思い納得し先に進もう。ゆっくりしてはおれないのだ。乳母車が戦車化なんて序の口。なぜなら漫画版だと最終的には江戸城へ殴り込み。さらに話はsfファンタジーゲームじみて江戸城地下に巨大ダンジョンまで登場。少年剣士大五郎の大冒険活劇。ギリシャ神話のオデッセイか。

2016年11月11日金曜日

鳥に翼、獣に牙

これは純愛物だ。確かに殺伐とした感の方が前面に出てはいるが温泉場を舞台にした抒情と微妙な男と女の関係の方に自分は強く引かれた。なんなんだろう湯煙と純愛がなじむのは。失楽園からテルマエロマエまで。傑作の多い子連れ狼シーズン1。

2016年11月10日木曜日

オーシャンと十一人の仲間(1960)

新宿武蔵野館だったか上映後のエレベーターで立川談志と乗り合わせる。

2016年11月9日水曜日

ウッドストック愛と平和と音楽の三日間

マクセルかなんかの宣伝キャンペーン。無料上映会。上京前の地元の公会堂かなんかで見た。超短縮版。今なら無料で当たり前どころか会場借りてまでやるほどでもなく無料配布のdvdでもおかしくない内容。けれど当時は有り難くて勢い込んで会場に向かい緊張して並んで興奮して開始を待った。けどテレビでモンタレーを見たときほどの感動は無かった。やけに荒涼とした印象。ジミヘンのアメリカ国歌は今みてもスゴいが。今日は米大統領選。

2016年11月8日火曜日

死神の子守唄

重箱の隅かもだが。病院裏。京子の処置を待つシーン。麻生博士の肩越しに誰かヘタリこんでいて直ぐに看護師が駆け寄る。精神科でも隔離病棟でもないからもしかしたら麻生型スペクトルg線開発のための人体実験被験者が脱走したのか。この場所やけに雰囲気あるしズット何かの断続的な機械振動音してるし。不気味だ。

2016年11月5日土曜日

エンドレス・ワルツ(1995)

ほとんどロマンポルノの名作のように男女ふたりだけにフォーカスし、そのキャスティングも演技も、ふたりが答えていて素晴らしい。発端とクライマックスで使われるハーモニカによるアメージンググレースが泣けた。上から目線で偉そうな批評になるが、しっかりとスター誕生やグレンミラー物語の系譜の音楽映画していて好感が持て好きな作品だ。

2016年10月24日月曜日

大魔神

三部作の中でも本作は第一作目と言う事も関係しているのか初期衝動が迸り過ぎてて初見の印象が吹っ飛ぶ程の辛口。額の楔からは血を垂らすし初登場の晴れ舞台ながら額に楔を突き立てたまま迫り来るし。挙げ句に楔を引き抜き串刺すし。痛快と言えば痛快だが今見ても一寸引く。いや大人になって色々人生の厳しさを知った今見たから余計引いたのかも。

2016年10月23日日曜日

忠治を売った女

岸田森と二宮さよ子の浮雲ばりの腐れ縁ぶりが股旅物と言うより敗戦直後の実録暴力団物って位のリアリティー。名和宏は村岡組長だし。見事な大人の為のヤクザ映画で疲れた中年の筆者は身に詰まされ落ち込むが勝新の寅さん演技と大魔神の特撮の人の演出のお陰で辛うじて癒され今日も筆を執る。秀作。

2016年10月22日土曜日

冬の海

忘れられた入江の、打ち捨てられた、漁師小屋。まるで、打ち上げられた、死骸、死を待つ、怪獣の姿のようだ。その節穴も、美しくも、悲しい、神話な三人の物語を、見詰める目に、相応しい。少女の描く、裸の、座頭市の画は、剣を掲げる、仁王像、不動明王像みたい、だった。

2016年10月19日水曜日

新・座頭市

ここ数日は座頭市テレビシリーズ各話と惑星ソラリス吹き替え版を見つけて観ている。例の某動画サイト。違法アップロードされた物だろうからリンクもシェアも出来ない。また出来るけどダウンロードしてオフラインの視聴の便も取らない。明日になれば突然の削除も有り得る。只こうした出会い頭感と一夜限り感。地方名画座オールナイト育ちの日用映画劇場カンリニンの筆者としては大切にしたいし切なくて嬉しい物。

2016年10月15日土曜日

暗黒街の対決

古臭さの無い今風、いや、それを越えて近未来のブレードランナー風味さえ感じられる。三船の時代劇演技が、幸を奏し、どこか人工的、ターミネーターのシュワちゃん、みたい、で、最高だ。鶴田もハリソンフォードな、かっこよさ。特撮テイストな、天本氏、平田氏、田崎氏、その他、お馴染みの面々、お陰で、荒神市は、さながら、星人に秘密裏に支配されてしまった、あの、セブンの狙われた街のようだ。まさに、痛快と言うに、相応しい。

2016年10月10日月曜日

暗黒街の対決

グレーゾーンを幻のようにアップされては消えてゆくユーチューブの無料映画。それは熱を出して学校を休んだ日のローカルテレビ映画劇場のうしろめたくも出会い頭な淫靡な楽しみに似ている。荒神市いい名だ。いわゆる暗黒街もののチェックポイントは舞台の街と脇役の殺し屋と決めている。新東宝のラインシリーズしかり黒澤の用心棒や酔いどれ天使だって脇役の殺し屋と荒廃した街こそが魅力なのだ。とにかく自分はSF寄りよりミステリー寄りでの平田昭彦が大好きだから。観る。

2016年10月9日日曜日

吸血地獄

手持ちカメラとロングショットの多用でドキュメンタリータッチの前半は連続殺人犯の青年を追い詰めて行く刑事ドラマ。後半は異様な閉塞感に満ちたホテル内での青春ドタバタ劇でロマンポルノのサイドストーリー。プラスその他の要素が崩壊寸前の絶妙のバランスで辛うじて同居している様は本来のゴシックを逸脱してバロックにさえ接近した吸血鬼pv。そう映画でもドラマでもない。ガラダマがインダストリアルpvなように。音の力。

2016年10月8日土曜日

座頭市血笑旅

赤ん坊の父親を切った後の苦い余韻。寺の石段を悉く生気を失いヨロヨロと降りて行く様。旧知の座頭集団にも背を向け子守唄を一頻り呟いてオモチャを懐に仕舞い歩き出す。まるでお守りでも仕舞うように。その行く手の空には何やら禍々しい煙が棚引いている。とにかく凄まじいラストシーン。

2016年10月6日木曜日

『戦え!マイティジャック』「マイティ号を取り返せ!!」

マイティ号は、やはりどこかウルトラマンに似ている。その巨大感と崇高感が、すべてなのだ。結局それが限界でもあり魅力でもあることが本作を観ると良く分かる。ダンがゲスト出演することでウルトラセブン世界が陰画的に反映され以下が浮き彫りになっている。それは、いかにマイティジャックが、ウルトラセブン的なガジェットに頼ったサンダーバード的007的な作品ではなく、どこまでも守り神的ヒーロー的なカタルシスで転結する、どこまでも王道なウルトラマン的大魔神的作品であるということ。まるでダンがセブンが旧ウルトラマン倒れし時、駆け付けたゾフィのように見える。つまりそれが無印マイティジャックにおける、どこまでも交わらないスパイアクションとマイティ号の存在感、あの感じの原因だったということ。しかし戦え付きになってからの、本作と最終話の前後編二部作は、そのことを開き直っている御陰か、どこかおさまりが良い。結局マイティ号は巨大なだけのデクノボーで良いのだ。デクノボーは落ちぶれた時にこそ、その魅力を発する。帰ってきたウルトラマンがそうだ。ローマ大史劇が落ちぶれての魅力から、マカロニウエスタンやゾンビが生まれたように。だからこそ、筆者わたしは、戦え付きのマイティジャックの中の少なくないホラー編その屈指の最高傑作として本作を推す。そうマイティ号による悪夢のような東京大空襲シーンそれはホラー以外の何物でもないのだから。セブンが東京を襲っても怖くなかったでしょ。旧ウルトラマンは怖かったでしょ。新マンは多分怖過ぎて見ていられない。

2016年10月5日水曜日

『戦え!マイティジャック』「希望の空へとんで行け!」

本作には個人的に、帰ってきたウルトラマンの、それ同様のテイストと重みを感じた。殉職隊員の残した最期の言葉は、マイティ号を見上げての、でっかいなぁだった。先日、本ブログで感動と評した彼の父親とのエピソード、炎の海を乗り越えろ、を発端とした個人的には非常に切なくも、どこか救いを持った最終話だ。確かに表面的には特撮やアニメは、衰退するどころか世界的に隆盛さえしているように見える。しかし本作や、帰ってきたウルトラマン最終話のような戦争を知る世代の手によるパイオニア作品にしか出せない濃い絶望と微かな希望の陰影を、どれほどの作品数が有し得ているだろうか。まさに私からすれば彼らパイオニアこそ、でっかいなぁである。表面的には、どんなに粗製っぽく見える作りでも観れば観るほど見上げるような大偉業なのだ。本作、金城氏の、マイティジャックで、ウルトラマンを越えようとし結局ウルトラマンにしか行き着けなかった、その敗北宣言も感じ取れる。でも、それで良かったんだと、その後、一氏が、上原氏が、帰ってきたウルトラマンの最終話で優しく金城氏に語りかけているようにも思う。まるで小川隊員の父が息子の英霊にでも語りかけるように。すばらしい戦いは、敗北さえもすばらしいのだ。

2016年10月3日月曜日

『戦え!マイティジャック』「炎の海を乗り越えろ!」

まず何の説明も無く登場する巨大ダコ。白鯨やクトゥルーの邪神を思わせる。クトゥルーと言えば本シリーズの他のエピソードでだが古代の神殿を抱く島が浮上し船が沈没、生き残りの船員達が島で閉鎖空間サバイバル群像劇を繰り広げるってのもあった。巨大メカ対巨大メカという構図も良いけれど怪獣怪物を出すのなら宇宙人よりマイティジャックには銀河系それを軽く越える大暗黒大宇宙大神話なクトゥルー設定の方が非常に良く似合うんじゃないかと思う。そして怪物を退治するのも白鯨や本作のように、正義とか平和とかのヒューマニズムな近代主義を越えた前近代的な怨念や執念と言った物。そうなのだグローバリズムなどと言うポストモダンなモノノケじみた化け物を倒すには前近代的な何かこそが必要なのだ。それも市井の庶民の。船長役のメイツ星人さんが実に良い。腹を殴ると言う子供の戯れじみた小技が脚本上とても上手く活かされている。ラストシーンのオンボロ漁船が実に雄々しく格好良い。これこそがマイティジャックの精神神髄なのだ。感動した。

2016年10月2日日曜日

『戦え!マイティジャック』「悪魔の海にとんで行け!!」

子供向けになったとはいえ、何気にアダルトな洒落っ気が、そこはかと散りばめられている。まずopだが、長いイントロをうまく使いメンバー紹介と副題が。歌が始まると旧mjと同じ発進シーンの流用だが。おっと、その前に。タイトルがmjの文字が割れて現れるが、これは、まさにウルトラマンのq割れ、そのものである。サブタイトル表示が、また洒落ていて通信タイプの映像のタイミングで、その上にかぶせられる。粋だ。ガラダマのopに匹敵するかっこよさ。女子隊員の紹介なのに、しっとりどころか爆発、これもいい。ぜひ科捜研の女でも採り入れて欲しいカット。さて本エピソードだが、いわゆる海洋奇談もの。前半は、とにかく、おどろおどろしい。フィルム反転映像の挿入と、その鬼気迫る演技。結局、敵が全く姿を見せないところなどは、侵略する死者たちと同様で個人的に、とても好きなテイスト。音楽催眠が、敵の主たる武器で、ラストで音楽音痴の源田隊員が、見事に、洗脳されたことを、からかわれているが、それより、なにより、天田隊長が嬉々として催眠にかかりたがっているところこそ突っ込んでほしい。笑。何故って、隊長役の南廣は、前職が、バリバリのジャズドラマーで、ミュージシャンなのだ。そりゃ全員の中で最も催眠にかかりやすいだろう。だからか、どうか、知らないが、ここぞとばかり、一肌脱ごうとする、その様、責任ある立場にも関わらず。笑。怪談ものを、こうしたユーモアで締め括るのも大人のドラマと感心。

2016年10月1日土曜日

隣の女

タイトルの隣の女とは全身黒衣、マスクにサングラスの長身痩躯の女の姿をした、人造人間のことだった。ドアチェーンを切ったのは義手がペンチにもなるのかと思ったが違った。マッドサイエンティストの老女の方だった。それにしても四六時中道具箱を手放さないなんて狂気の沙汰だ。電機ドリルを取り出し襲ってきたが、あの後主人公の女の子も人造人間にされてしまったのか。しかし人造人間は人造人間でも正体不明で、金属だけでなくベニア板みたいな有り合わせの物も使われて造られているっぽいし、買い物くらいの用事こそ出来るみたいだが時にドアも開けられなくなる出来損ない、なのが余計怖い。サウンドトラックもトランスでインダストリアルでと異常にマニアック。

2016年9月30日金曜日

『ウルトラファイト』「怪獣残酷物語」

ゴミや水死体ばかり流れ着く、此の世の果ての幾つかの、その一つの吹き溜まりのような、岩場の打ち捨てられた入江、ここは宇宙の果てでも在るのか、二体共に宇宙怪獣で、繰り返される悲しき咆哮なのか霧笛なのか、ブラッドベリの名作さえ喚起させられたり、怪獣の実存の奥深さに思いを馳せさせられたり、突然の断末魔の叫びと、流れ着いたゴミなのか、朽ち果てた流木なのか、二つの墓標の瞬殺名ショットには、ウルトラファイト、その悲しき本質までも見せ付けられたようで、実際には聴こえもしない、後に残る海鳴りが、遠く無常感を盛り上げつつ、いつまでも脳内にリピートし続けている、その一大事な感じは、昼下がり、不意の12チャンネル、二時間の吹き替えパゾリーニ映画を一気に初見させられた時のような、凄い余韻。

2016年9月29日木曜日

『ウルトラファイト』「潮騒は俺の子守唄」

ここは子供達の夢の理想郷怪獣島。どこかとぼけた怪獣くん達が時に無邪気なケンカイタズラしながらも公害も受験も交通事故もなにひとつない。などというおめでたさを見事なまでに粉々にまで打ち砕く子供向け番組色微塵も皆無のヘビーな一編。音楽がハーフスピードダウンで流用されているのか異常。

2016年9月25日日曜日

『怪談新耳袋』「赤塗り」

真っ赤な付け爪の真っ黒な人間に主人公の女子学生が襲われる。 それも非常外階段付きのビルが舞台。 最早これは『怪奇大作戦』の「美女と花粉」のオマージュか後日譚かと。 そうとしか、この中年オタクには思えない。 思いたくない。 だって楽しいから。 主人公の友人の住む、このビル。 普通のマンションにしては1階のドアのロゴが会員制か何かのジムっぽいロゴに見える。 もしや、あのトルコ風呂を経営していた会社が大成長しての、その系列会社の、そのロゴだったりして。 だとすると、もうこれは叫びたい位、怖い。 オチなんか、だって、もう、あの作品が元ネタか、どうかは責任持たないが、あの作品を知っている、この身としては。 不気味な友人を前にしての、あの直後の主人公の変わり果てた姿を思うと。 犠牲者は爪がボロボロになり全身真っ黒になって呼吸困難で死に至る。 だから幽霊は点け爪だったのだ。 怖。

2016年9月24日土曜日

美女と花粉

怪奇大作戦の驚異の先見性の1つが、ここにも。まだ花粉症という呼称すら一般的でなかった時代。花粉の有する最凶のアレルギー反応が一瞬で人を死に至らしめる、などというトンデモ発想にまず感服。さらにそれは怪奇大作戦の裏テーマであるところの公害環境汚染問題つまりアレルギー物質の氾濫さえも、先駆的に暗示していて、ヤバい。ほぼ後半全部を使い動機と顛末が密室劇仕立てで語られるところなどは、もはや神話的ですらある。牧のSFテイスト、助さんのハードボイルドも、いいが本作のような複雑な事件の時は、やっぱり所長に現場御登場願いたい。その不条理でトンデモな空気感は所長にしか出せない。あの光る通り魔のラストカットでのシェイクスピア演劇のようなオーバーアクション。

2016年9月23日金曜日

青い血の女

助さんものは牧カラーに染まりがちな本シリーズ怪奇大作戦の中でも、その醸し出すハードボイルドさが堪らない魅力を放っている。そう筆者は得心している。特に本作はそれが濃厚で、主人公が犯人にされ容疑者として怪我を負ったり行動を監視されたりと、ハードボイルド探偵もの定番の手法が、さらりと採り入れられている。さらに助さんの捜査中、事件に巻き込まれ非業の死を遂げる女が描かれているが、彼女は単なる通りがかりの被害者ではない。助さんと好意を交わす程にはなっていないが、本来ならばそれなりの出逢いと別れが描かれる宿命の女ファムファタール。まさにハードボイルド定番の存在で、全編ほぼ夜のシーンに煌めく刃物も、ピストルで撃ち砕かれる人形も、フィルムノワールな、私的偏愛の、極上とまではいかないが、一作に違いない。蛇足かもだが。助さんの名誉のために言っとく。額の十字絆創膏姿は、チャイナタウンのジャックニコルソンばりに、かっこいい。

2016年9月19日月曜日

ゴジラ対メガロ

自分は本作が嫌いではない。主人公の兄弟には家族がいない。ジェットジャガーへの執着も尋常ではない。兄は、あのフランケンシュタイン博士めいている。訳あり孤独のマッドサイエンティスト。今風のオタクの感じもある。かなりの先取りだ。その創造物が世界を救う構図。第一作に通じるからだ。フランケンシュタイン対地底怪獣に通じるからだ。ゴジラ対ヘドラ。ゴジラ対メガロ。メカゴジラの逆襲。木枯らし紋次郎。挫折全共闘な。茫漠。荒涼たる70年代世界。

2016年9月18日日曜日

モスラ対ゴジラ

自分はどうしてもいや自分だけではないかもしれないが本作モスラ対ゴジラが何か腑に落ちない。理由を考えてみたい。キングコング対ゴジラは手放しでゴジラシリーズと切り離して観賞できるのになぜか本作モスラ対ゴジラはこれが一体モスラシリーズなのかゴジラシリーズなのか未だ判然としないでいる。そこに原因があるように思う。ゴジラの逆襲はゴジラシリーズ第二作ではない。そう思うことは自然にできる。二代目ゴジラの第一作だからだ。三大怪獣。これはキングギドラものだ。 誰も空の大怪獣ラドンの続編だとは思わない。 大戦争。これはX星人もの。新怪獣は出ない。南海。エビラもの。いや新世代交代スタッフデビュー作。まだまだ手探りの実験作。準備作。息子。ここでやっと二代目ゴジラシリーズ第二作となる。だけど対戦シリーズではない。本格的二作目はヘドラまで待つことに。総進撃。時代設定が違う。オール怪獣。これは完全に異色作。そして対ヘドラ。ここで二代目ゴジラシリーズ第三作となる。本格的対戦スタイルから言えばここでやっと第二作目。続くガイガン。メガロ。ここで一旦終了。モスラ対ゴジラはモスラシリーズ第二作。モスラ続編。ここらへんでそう自分はそう言い切らせてもらう。いや言い切らせてほしい。ズバリ。早すぎたのだ。モスラ対ゴジラは。ゴジラ対ヘドラのテイストが出せる70年代まで待てば良かったのだ。あのようなダークな作風でインファント島を描いて欲しかった。海岸の村人や子供を描いて欲しかった。悪者も若者たちみたいに描いて欲しかった。その末路も。70年代のゴジラがああなったんだったらさぞ70年代のモスラも。いやはや観てみたかった。

2016年9月16日金曜日

ウルトラマン

行ったこともない土地の会ったこともない他人と或る日突然自分が入れ替わってしまう。初代ウルトラマンがそうである。ただしハヤタの場合いきなり自分の前にM78星雲の光景が広がったわけではなくどうやら意識を失っていたようだ。最終回でそれがわかる。一方ウルトラマンはその日から地球の風景の中で生活することになるわけだがどうやら彼はすでに地球のこともハヤタの内面もすべてインプットしていて驚くこともなくまた周囲を驚かせることもなくハヤタを装い生活を始める。ってなことをちょっと考えたりするとちょっと楽しい。あとカフカの変身もちょっと曲解してみる。やはりちょっと楽しい。主人公ザムザは何処か遠くに出張していて或る朝目覚めたらそこは出張先のビジネスホテルなんかではなくなっていていつの間にか我が家の自室に戻っていた。ただし我が家の自室のゴキブリとして、、、、、、、ザムザのほうはご存知例の小説のようにその後のことは運ぶので置いといて。以前帰ってきたウルトラマンは心踊るヒーローものなんかではなく不条理で物悲しい変身譚だと書いたがこういうことだ。郷秀樹はウルトラマンの超身体を得て戸惑う。問題なのはと言うか想像するだにケッサクなのは出張先のザムザの身体に憑依してしまったゴキブリのほうだ。ゴキブリはザムザや郷秀樹のように悲嘆したり動揺したりするだろうか。もしかしたら奴らはそのとんでもない環境適応能力で淡々とそれまでの日常と同じように振る舞うのではないだろうか。大変なのは周囲のビジネスホテルスタッフとかでは。突然何やらその日からひとり客室から客が姿を消したと思ったら得体の知れない巨大な人影をしたゴキブリの気配に怯えその素早い動きの突然の出現に右往左往することになるのだから。こうなるとこれは立派なホラーである。でもこの顛末。初代ウルトラマンのドラマもよくよく考えれば同じなのでは。ビジネスホテルスタッフが科特隊なだけで。笑。

2016年9月9日金曜日

青い血の女

水子供養のための祠へと、納められるような、素朴すぎる、人形というより、ヒトガタと称する方が、似つかわしい、造形のアレ。独居老人宅のゴミ屋敷化問題や、老人施設内での殺人が、珍しくもなくなるような、そんな日常が、現実に訪れようと、誰が、予想しえたであろうか。その先見性が、ますます先鋭化する、怪奇大作戦。

2016年9月8日木曜日

虹の卵

開発都市への途上にある村。村の古老なのか、言い伝えを子供たちに聴かせる。子供たちは開発都市流入組の子供たちなのだろうか、村の自然が珍しいのか冒険しきりで遊びまわっている。土着の怪獣が現れ開発都市へ輸送中のウランが紛失する。子供たちの児戯のおかげかウランは無事発見、過程で村の古老とも子供たちの心は深く通う。開発都市は怪獣のため全壊、都市計画は頓挫するのか加速するのか。少なくとも、そんなことより、人と人の心が通い会うことのほうが、まず必要。そんなことを言っているように思うが、どうだろう。1960年代までは本作のように山間の開発がテーマのものがメインでダムやトンネルなど、ウルトラqやマンにはそんなのが多かった。あと怪奇大作戦の霧の童話とか。しかし1970年を境に開発対象は海側のほうへとリアルが移ったように思う。それを踏まえ、本作や霧の童話を脳内で海側に舞台し直して鑑賞してみる。そんな視点で私的問題作モスラ対ゴジラを、無難作ガメラ対ギャオスの収まりの良さと比較してみると面白い。当時1960 年代前半作キングコング対ゴジラも三大怪獣も大戦争も山間系なのだがモスゴジだけが海側系。そのせいなのか、モスゴジだけが際立ってエコ的文明批評要素が自分的にはブレブレに見えるのだ。以後しばらくゴジラシリーズは、このエコ要素を放棄。対ヘドラに至り復活したかに見えたが、やはりブレブレは続き、今に至る。ブレブレで良しとする今風派の人は、それでもよいだろうが、古い人間の自分にはどうしても引っ掛かる。怪獣には、特撮には、常に、エコ要素な環境問題とセットであって欲しい。その点、真の?怪獣ものとしての怪奇大作戦の素晴らしさよ。

2016年9月7日水曜日

日の果て

円谷特撮ファンにはこたえられない超豪華キャスト。電送人間、怪奇大作戦、ウルトラマンレオ。よってたかって地獄の黙示録じみた終末感に満ちた密室劇を展開してくれる。思弁にならずアクション寄りでライトな展開で上映時間も短く後味も爽やかだが背後の重い重いテーマがじわじわと押し寄せてくる。名作だと思う。1954年。独立プロ作品。

2016年9月5日月曜日

赤い殺意

超先取りのメガネ女子に萌える。何よりもうらぶれたストリップ小屋でのバンドシーンが最高。ドラム、ギター、ペット編成で ーこれは間違いなくフリージャズだ。編成といい、選曲といいー なんとギターは殿山氏。名作に相応しいスタッフ泣かせな ー特殊撮影も冴えているー 名シーンが満載。今村作品の奥ふかさと懐ひろさには驚愕。

2016年8月23日火曜日

宇宙指令M774

一条貴世美、ゼミ、セミ、セミ人間。変な連想は置いといて、本作は演出が破綻しているのではなく脚本が非常に、観念小説、思想小説、ディスカッション劇、ポリティカルフィクション、的だからだと思う。救援の戦闘機が来たということは事態は国家レベル以上の世論を招来してしまっているという証拠であるし、ラストシーンの不思議な光景は、舞台が異星であるところの、それが、一種の宇宙防衛サミットの模様を描きだしたもの、だからなのではないだろうか。視聴者に語りかけるカットが戦慄的ですらあるのは、だからこそ、なのだ。

2016年8月18日木曜日

あけてくれ!

これは、ヤバい。一平の存在し得ないパラレル・ワールドに、淳と由利子は、車ごと迷い込んでしまったに違いない。それも、自身の居る世界を、よりユートピアへと見せ掛ける為に、友野が、意図的に造り上げたディストピア・ニセ東京へと。二人は、確かに、迷い込んでしまったのだ。そうとしか思えない。オープニング。現実の世界に置き去りにされた一平が、二人の去った先に見る、あのタイトル・バック。そこに映し出された東京の夜景は、高速道路だらけで、その上を電車が飛び回っているし、遠景のビルも何やら炎上か、発光しているようで、正に、ディストピア。ごく選ばれた者しか電車には乗れない、そんな地上に電車が無くなってしまいつつある、そんな世界。一ノ谷も、嘗ての一ノ谷とは、どこか違う。何よりも、研究所の中の覗き窓のある座敷牢に、被害者の女性を残酷にも、閉じ込めてしまったりしているではないか。あの穏健な一ノ谷と、同一人物とは、どうしても思えない、非情な所業である。そして、この東京が、ディストピアたる最大の証拠として、二人の乗ったエンストした車から流れるカー・ラジオ。音楽など一切流れず、まるで、戒厳令下かと思わせる程。難民の車の交通渋滞情報ばかりなのである。このディストピア・ニセ東京からは、最早、誰も出て行くことが出来ないのだ。さて、二人は、車を後にして、淳の事務所に行くが、そこには、一平らしき人影は、あるには、あるのだが、二人からも、一平からも、互いが、まるで見えていないかの如き、不気味な演出が施されている。正にパラレルワールド。只、救いなのは、今まで、一平は、影も形も無くなってしまっていたのだが、こうして、今は、両世界が繋がりかけ始めている。そんな風にとれるからだ。二人は、この後、また一平の認識できる世界に戻れるであろう。めでたしめでたし。しかし、いずれにしても友野という奴は、時空を自由に操れる、とんでもない奴だということ。友野の顔の入った著書だか書類だかは、街中、至るところに神出鬼没で、そして、あれは、どう見ても、黒いタブレット端末に見えてしまう。1984年のビッグ・ブラザーのテレ・スクリーンめいて。

2016年8月15日月曜日

助っ人無用

サイレンサーとオチが最高。老殺屋にサイレンサーといえばブランドの凄味にデニーロのかっこよさ。ゴッドファーザーpart1part2。

2016年8月14日日曜日

ウルフガイ燃えろ狼男

映画そのなかでもB級のよさは、特撮とくにヒーローもの、アクションものに、にじみでてる。昔は、つっこみネタとして笑いものにしていたような低予算かつ杜撰なシーンやカットが今では実にあじわいぶかいものとして感じられるようになってきた自分がいる。例えばヒーローの変身シーン。同じものの使い回しなので、変身時その瞬間の服装だけがいつも同じだったり、昼間の変身なのに、いきなり背景が夕陽になったり。実にあじわいぶかい。服装に関しては、なんかすごい物理法則たとえば空中元素固定装置とかで強制的に素粒子レベルで一瞬そうなるものだと思いこんでしまえばつっこむよりもこっちのほうが断然、楽しい。夕陽も、時空に歪みが生じてそうなるとかね。そして、敵とのバトルアクションがはじまった。とたん街中だった景色がいきなり荒野の造成地に切り替わる。これも街中が一歩、裏通りに入ってしまえば、そうなっていると思いこんでしまえばこれまたこっちのほうが楽しい。事実、復興時の都市としては充分あり得ることだし復興の原因となった災害や戦争その規模が大きければ大きいほど、そうなるはず。そういう終末世界、ディストピアな舞台設定、時代設定へと自らバイアスをかけて思いこませることで、とことんまで、SF的スケールの大きさな世界へと、まるごと身を浴する。

2016年8月13日土曜日

問答無用

仕置きのシーンは凝った照明と丁寧な美術という人工空間な点がウルトラマンの3分間に匹敵するカタルシス。もはや特撮作品と言って良い。また本作では松の竹鉄砲が防衛隊の火器攻撃の特撮を思わせ鉄すなわちウルトラマンの肉弾戦をMATの如く強く補填している所は旧から新へのリアル化の流れも感じられ正に帰ってきたウルトラマン。更に共に1話2話での大監督の起用。とどめは岸田森その怪獣的演技と不条理な存在感。嬉しすぎる新必殺仕置人。

2016年7月31日日曜日

日用映画劇場

なぜ本ブログタイトルが日用なのか。 それは今でこそ特撮やB級映画が、 名をえているけれど 以前は特撮いや怪獣映画などというものは、 プロ野球の雨での中止の代替番組という、 ひどく祭りの後の寂しさ感をまとった、 空しき日常系に位置づけられていたし、 B級映画といえば洋画邦画とわず、 友人もできない下宿大学生や団地妻が、 ただれた日常をもてあます昼下がりや、 局側が昼休み時のワイドショー番組のための、 準備で忙しい昼前時、 そんなのの間に合わせとしてってのが定番だった。 もうひとつは本ブログの内容が日用品としての紙、 つまり原稿用紙ではなくチラシの裏的な物への、 試し書きなのだ、 としたいが為、 微妙に他人を不快にするかもな、 独断意見だということを自覚し、 その予防線とエクスキューズも込みだということ。 しかし本名を明かすことで、 その独断も身を少しは削って観てきたぞ的な、 映画愛の自負も少なからずだ、 ということも。

2016年6月8日水曜日

怪獣島の決戦ゴジラの息子

マツコデラックスではないがヘッドホンずきのわたしとしては、本作ゴジラの息子と次作オール怪獣大進撃については、駄作がどうのこうのではなく、たまらないシーンが、あるということだけはけっして忘れてはならない、と、声を大にして言いたい。

2016年6月5日日曜日

怨念!小島の春

bgmは通常のそれの回転を落としたものを流用している。一種異様な脱力感で効を奏している。いずこからか飛来した三度傘をキーラとセブンが取り合うというシュールな発端。最後は光学処理のない光線技で件の三度傘を燃やしてしまうセブン。いわく怪電波を発射したらしい。ウルトラファイト中の一本。

2016年5月27日金曜日

ゴジラ

まさに表現主義ハードボイルド映画の大傑作。男女三人、三角関係の、業ふかい、陰影ふかい、人間模様。むせかえる戦争の傷痕。これは、もう第三の男そのものではないか。生きながら死んでいるような過去にのみ、いきる、影の男、セリザワ。おめでたい、まきこまれ体質のヒッチコックキャラか、、、、オガタ。そしてハードボイルド映画になくてはならない絶対的存在、運命の女、ファムファタール、、、、、、、、、、、、、、、ヤ・マ・ネ・エ・ミ・コ。

2016年5月26日木曜日

モスラ対ゴジラ

致死量の放射能に汚染されながら嘗ては谷底に謎の緑の森が生じていたインファント島。今や、あちこちに奇形の動物の骸骨が散乱。それほどに荒涼としている。島民は何やら地下の洞窟網に潜み、その数も激減した様子。その何処かに存在する泉の周辺にだけ辛うじての緑。そこに横たわり死を待つだけの成虫モスラ。日本に流出し見世物にされる卵。追いかけて小美人。絶望し帰島する成虫と小美人。更なる遺跡宝物とか商売ネタを求め島民蹂躙目的で島へ乗り込む悪人。追いかけて来て島民に味方する正義側。欲にまみれ死ぬ悪人。お礼にと成虫が幼虫制御に日本へ息も絶え絶えの過酷な旅。それだけでいいのでは。どうもゴジラが余計な気がしてならない。モスラの逆襲。折角の縮小再生産哀愁臭を持つ、くすんだ感のあるプログラムピクチャーテイスト。なのにゴジラを出さねばと、豪華にせねばと、東京オリンピックイヤー64、無理してないか。地味な佳作の座頭市血笑旅を見習って欲しかった。モスラによる人情いや獣情ロードムービー。見てみたかった。異色な良心的小品をとるか娯楽な賛否上等の冒険作をとるかキンゴジほどではない予算と期間、難しいところだったのだろう。むずかしい後者を選び、割には頑張っているとしたいが、やはりゴジラは、、、、だからこそ前者の道を選んでのショボいけど味のあるモスラの逆襲の名を冠する縮小再生産型純モスラ続編を見てみたかった。迎えに来た成虫は最期に語りかけるように暴れないようにと卵の上で息絶え、生まれた二匹小美人振り返りつつ島へ帰っていく。

2016年5月19日木曜日

宇宙大怪獣ドゴラ

ドゴラは日本上空の放射能の吹きだまりの中でさまざまな細胞がミックスされ巨大化したものらしい。ということはドゴラは単体の怪獣の脅威というより一種の気象公害の脅威であって吹きだまりの日本上空は台風のようなシステムでつねにダイニダイサンダイシのドゴラが存在しつづけるということか。

2016年5月17日火曜日

2016年5月12日木曜日

遊星よりの物体x

怪物が植物由来なのと場所が北極なので温室が出てくる。温室といえば三つ数えろや怪奇大作戦の美女と花粉などが思い出され楽しい。制作にウィリアムフォークナーやハワードホークスひいてはオーソンウェルズまで関わっているらしいとか大人の事情がらみなのもナイトオブザリビングデッドしていて楽しい。音楽がナバロンの要塞のディミトリティオムキン。もうこうなるとこれは三つ数えろにならぶモノクロが光る不条理ハードボイルド映画の傑作と言えよう。さらにビスコンティの郵便配達は二度ベルを鳴らす。さらにさらにウェルズの審判。モノクロじゃないけどやはりビスコンティの異邦人も加えたいところ。まぁとにかく本作。出自が個人的に非常に好きなテイストだったことを今さらながら絶賛再確認中。

2016年4月23日土曜日

ガラモンの逆襲

セミ人間は密猟者である。前回のガラモン飛来によってセミ人間からすると地球全体が無法者たちの猟場と化したのだ。事実非民間当局ここでは大学研究所とされているがそこにガラダマはなぜか押収され管理された。やはり非民間の電波研究所だか監視所だかとかいうのも出てくるがこれにしても何やらうさんくさくさらにその所長だか主任だかの平田昭彦も民間の一ノ谷博士とはうってかわって何やらうさんくさい。なぜガラダマが一ノ谷博士の元に無いのか博士はどこへいってしまったのか平田昭彦のうさんくささはウルトラマンのゼットン星人の時まで続く。幸い高い志しの正義の人だったが。さてセミ人間であるが彼からしてみれば危険きわまりない猟場だしまたその奥の研究所はさらに危険なはずなのにそこまで危険を犯してガラダマを盗みだそうとする。本編はそうしたセミ人間の身になって見直してみるとちょっと不謹慎だが海賊的な無計画ぶりでこれほどハラハラする冒険譚はないといえるくらい面白い。たぶん星の当局者ではなく市井のアウトローの密猟者。星の当局ならもっと大規模で冷酷で綿密な侵略計画を遂行するはず。まさに彼はそのルックスもふくめ地球に落ちてきた男のニュートンにも匹敵する正義とか悪とかを越えた俺的アンチヒーローである。結果的に計画に失敗し密猟者仲間にも裏切られ醜い正体なさらしものとして人柱的に焼き殺されてしまうがそういうところも悲劇的でまさにダークヒーロー然としていてよい。ガラモン編は正編だけでも面白いがこの続編はこれ以上はないと言えるくらいアクロバチックな展開で因果応報プラス哀愁の見事な完結編となっている。

2016年4月22日金曜日

ガラダマ

舞台となるこの地方は昔からガラダマがよく飛来していたとされている。だとすると実はこの地方、もしかすると横溝的な因襲めいた村でもあったんでは。だからこそ真っ先に開発のターゲットにされ、さすがに第三東京市のようなガラダマ迎撃要塞都市化にこそはされはしなかったがガラダマ研究特殊施設化ぐらいのゾーン的な禁制地帯にはされたのでは。ダムとされているが何やらその壁面も謎の施設と外界を隔てる巨大な冷やかな壁のようにも思えてくる。そうなると子供たちも明るそうだが何やらストーカーに出てくる娘やアヤナミレイのように、もしかしたら飛来によって何らかの汚染や精神的影響を受けていたり、もしくは対ガラモン生物兵器化の実験材料な悲しきミュータントかクローンか、とまで考えてしまう。とすると、その子供たちのセンパイとして村に戻ってきている女性ふたりの存在が突飛どころか必然性においても活劇性においても、かなりどころではない重要性を帯びてくる。唐突に終わる幕切れもそうだが子供たちを筆頭に登場人物が中途半端で退場し二度と出てこず、そのままなところとか群像劇仕立てでホラーものによくある描き方なのも堪らない無気味さだ。

2016年4月17日日曜日

ガメラ対深海怪獣ジグラ

昭和ガメラシリーズを見直している。特に後半作は低予算だからか、一つのセットに見せ場が集約させられているからか、舞台感見世物感が濃厚で変に高揚させられている自分がいる。以前から、大魔神シリーズ座頭市シリーズ妖怪シリーズ含めて、思ってはいたのだが、ダイエイってホリゾントの空の変化と懲りぶりがかなりで、雄弁に物語を補填していて見事だな、と。

2016年4月9日土曜日

吸血地獄

吸血地獄、それは、続、真夜中のカーボーイだった。まぁ制作順は正編続編逆になってしまうが。現代人の孤独からくるケミカルやデジタルへの依存は吸血鬼の血を求める渇きとどこか似ている。青年はヤクを調達しようとして接触した不良グループの中のひとりとして初めて少女と出あったのかも知れない、このへんまさに真夜中のカーボーイのふたり。少女は根っからの不良ではなく、金髪、外人、というナリがナリなので、ささいなことで家出し居所にこまり不良グループのだれかのところに一時的に身をよせていたのだろう、このへんもまさに真夜中のカーボーイのふたり。その後、少女は父親とはわだかまったまま、母親のおかげで家にもどったり出たりだったが、青年のヤクチュウと青年の不良グループからの更なる邪教集団への深入りが心配で付き合い続けていたものと思われる。そんな中での駆け落ち的な希望に満ちていたはずの遠出先、そこでの自動車事故、計画の頓挫、悲しい死別。ここまでくるとホント真夜中のカーボーイのふたりと重なる。それくらい真夜中のカーボーイは、吸血鬼ものにすぐにでも横滑りするくらい特撮いや円谷臭をすでにもっていた。いわく、テレビでのウルトラマン、さらに、やたらの十字架とか、カルト信者とか、集会とか、墓場とか、吸血鬼ものっぽい道具だての数々、真夜中のカーボーイの世界、魔都ニューヨーク、そこには溢れていた。とどめは、ジョーが血を売るくだり。なにより、邦題のカーボーイというSF的造語。そう、青年つまりジョーのことが心配で心配で死んでも死にきれなかった少女つまりラッツォは、よみがえりこそ果たし青年つまりジョーと喜びの再会も果たしたが、少女つまりラッツォは吸血鬼への転生という生前の不具よりさらに重く厳しい代償を払わねばならなかった。そして吸血地獄のあのラストである。ここに真夜中のカーボーイの続編としての吸血地獄が成立する。真夜中のカーボーイが十年に一本の傑作青春映画ならば吸血地獄は百年に一本の、超、傑作青春映画なのだ。ということは真夜中のカーボーイって百年に一本の超傑作吸血鬼映画ってことか。ラッツォ、血も吸えない吸血鬼の落ちこぼれ、見えなくもない。

2016年3月25日金曜日

吸血地獄

ヤク中の金持ち青年と孤独な吸血鬼の家出娘が今でいえばハウステンボスかディズニーランドのような当時ベタな温泉街のナントカ地獄というテーマパークをデート気分で無軌道な青春っぽく行く先々衝動的な殺人犯すというホラー版ボニーとクライドのようなロードムービーに二時間あったらなったはず。でも三十分でまとめるにはそういう王道的な描き方は絶対無理。なので捜査陣視点にしようとするもそれでも三十分枠苦戦している。しかしはからずも幸運なことにマトヤ所長というどこか謎めいて慈善家か宗教家めいた人物の視点をとりいれたことでコロンブスの卵してしまっている。もしマキというヘルシング視点で動かしていたらことごとく陳腐化し失敗していただろう。それくらいこの吸血地獄という回は京都買いますの何倍もデリケートなテーマを有し怪奇大作戦そのものからも大きく逸脱してウルトラcならぬウルトラqして大傑作たりえている。壮大な金城円谷ゴールデンコンビの怪獣怪物愛に満ち満ちた置き土産。母親が警官の銃を手にし直後身投げ切なすぎる。育ての親に報うなる日本的情感にはただただ涙。

2016年3月15日火曜日

光る通り魔

辺境周縁に追いやられたものたちはただ怨念のみを糧にして生きのびてきた。それこそが怪獣であり、支配なる近代思想を根本理念とする宇宙人や悪の組織とはあきらかにちがう。だからこそ怪獣は人類と敵対こそすれ同時にひどく現代人をひきつける。光る通り魔の燐光人間こそまさに怪獣でありその駆動力の怨念はハンパない。うちすてられみすてられた人間のクズ人間のゴミ流れ着き吹き溜まる自殺名所。その頂に口を開けすべてを飲み込み赤く燃えるブラックホール。そんな南の端の火山の火口から、そう東京にまでただ這いずってやって来たのだ。

2016年3月2日水曜日

ガラダマ

ガラモンは名前ではない。ガラダマに積まれたモンスターだからガラダマモンスターその略。ガラダマの飛来は侵略ではない。原子炉そのものの不法投棄である。ガラダマのガラはガラクタのガラでゴミアクタの意味もある。もはや侵略以上か。ガラモンはロボットである。それも大きさすら、まちまちな三流大量生産品。手や足の装甲は剥がれやすく使い終わったで厄介な動力は旧式の原子力。それを廃棄物用コンテナであるガラダマに乗っけて宇宙の果てから地球に向けて奴ら片っ端から廃棄しているのだ。ついでにゴミにICチップタグを付けるように電子頭脳の小型のガラダマまで付け。しかし、そんなエコロジーな文明批評は表立ててやったんでは効果半減。ヘドラがそう。そういうのは背景におしとどめてこそ真の文明批判なのだ。ゴジラ第一作はそうだし怪奇大作戦もそうだ。だからガラモンが動く廃原子炉であり制御不能で口からメルトダウンするとかという設定よりも、いったん電波を遮断されると、ふたたび電波を流しても、もう二度と作動しない点。つまり電波は墓場つまりゴミ捨て場への誘導電波にほかならないという、何か、ひどく無常感漂う、あのラスト。文楽とか能っぽい設定の方が世紀を越えて残る古典においては何倍も重要なのだ。

2016年2月3日水曜日

マタンゴ

ゴケミドロの杉坂は最後女と逃げるからダークヒーローではないが、よく見て、よくよく考えると、マタンゴの村井はダークヒーローなんじゃないかなと思う。一人あの地獄から生還し、あの顔半分キノコ化した姿も恐いけど格好いいとしよう。こう考えてはどうか。食べなくても誰もがすぐ全身マタンゴ化するのが普通で、村井だけは抗体があって、あそこで留まっていられると。そうするとバイオハザードではないか。村井は、これからはじまるであろう対マタンゴ戦のまさにヒーロー村井にふさわしい。 というかもうすでに対マタンゴ戦は密かに実は東京では終了しておりとっくに特区ではマタンゴに占領というか絶望的なまでになっていて、あの島のほうがマタンゴ汚染の度合いが低かったとも考えられる。とすればまさにキノコをいっそ食べていたほうが良かったことになる。 しかしそれを村井はしなかったせいで東京医学センターの手によって対マタンゴ戦の兵器として使われるのだろうか。 まさにダークヒーロー。

2016年2月2日火曜日

吸血地獄

梶隊員役の役者さんの演技がすばらしく、今回の主人公のヤクチュウのボンボンらしさがよくでている。行く先々がミーハーな観光スポットだし、犯行の後始末の杜撰さも良家の子女カップルならでは。ファイブイージーピーセスを思わせる吸血鬼版ロードムービーの傑作足り得ている。ホテルでのSRIの二人の演技もすばらしく、青春群像映画にありがちなドタバタ騒ぎ騒ぎしていて実に微笑ましい。そう言えば、このコンビのドタバタ振りはさらなるホラー「殺人者に怒りの雷光を」で見事な結実を見せる。

2016年1月31日日曜日

怪奇大作戦24年目の復讐

二十四年目の復讐。なぜ水棲人間だったのか。水棲、それが二十四年間の河川の水質汚染から、戦後なるものを言語でも思想でもなく、身体的に思弁的にとらえられうる立場であり、汚染が精神にも及んでいての物語の展開性をも示唆できるから。

2016年1月23日土曜日

セミ人間

コントローラーガラダマはチルソナイトでできているので分解できないから、電波を遮断して保管しておくしかない。本来なら、新たなコントローラーガラダマを飛来させればよいのに遮断を解いて古いコントローラーガラダマを流用しようとする。ということは、新品のコントローラーガラダマにコストをかけて侵略するまでもない、ということか。彼に与えられた、古いコントローラーガラダマを回収復活させる任務は危険な割にはそう重要ではないということになる。逃げた円盤の奴らも、どうせ辺境支配用外人部隊のならず者たちだろうから、自らの裁量で、仲間なのだからとして、彼を収容して上層部にはうまく取り成すなどという、度量もなかったのだろう。セミ人間。個人的に、人間体形態時も含めて同情あまりある悲劇のダークヒーローとして、君臨し続ける。