2013年7月10日水曜日

人間ウルトラマン

かつてドラえもんの最終回ドラえもんは存在せずすべては病院での植物人間状態の少年のび太の夢落ちだったとする都市伝説があったが必然性の点において遥かに勝るのが帰ってきたウルトラマン。すべては郷が見た夢だった。郷が大怪我をするその瞬間を見ていたのは透明ウルトラマンと加藤隊長だけだった。死の床で郷が見たものそれはウルトラマンの超身体を得るという夢。そう瀕死の病床ではなく死の床で見た夢。生き返った郷に対して健はあっけらかんとしてレーサーの夢を託していたのも忘れたかのように加藤隊長に郷の身柄を預ける。既にここから全て夢の中の出来事なのだ。そう健とレーサーという事実は現実だが郷がマットに入ってウルトラマンとして活躍する事は全て郷の見た夢なのだ。流星号という名と科学特捜隊のマークの符合。レーサーとしてではなく健の作った車に乗ることのほうの意味合いの方が郷にとっては重要だったことがここであきらかになる。マットは存在したかもしれないが加藤隊長はウルトラマンと同様に郷の見た架空の幻影の存在なのだ。だから加藤隊長は郷の成長を見届け転勤していく。最終回で郷は完全にウルトラマンになってしまう。つまり郷は完全に死んだのだ。旧ウルトラマンのように郷に命をやることはできなかった。今回はゾフィもいなく危機に瀕した故郷を救うために新マンはどうしてもいきてかえらねばならなかった。旧ウルトラマンはウルトラマンとの分離の時ウルトラマンが命をやろうとしたがハヤタはゾフィのふたつの命のうちのひとつをもらいうけ生き返った。ひとりの地球人がウルトラの星の危機を救うために地球人としては死すというこの設定は残された次郎君にとっては本当に救いだろうし末期の夢だとしても郷本人にとっても救いだろう。こうしてたぶん歴代のウルトラマンのなかでも群を抜いたヘビーさをもともと本作のこの設定はもっていたのだ。だから破綻してさらに想像もつかないメタフィクションとしての怪物性を本作は得てしまったのかもしれない。死の床で郷はウワゴトとして自分がウルトラマンになったような事を話したのか。もしかしたら健が死の床で命と格闘する勇気をウルトラマンに喩えて次郎君に話したのかしたのかもしれない。目の前の現実からすぐにでも逃げ出したいくらいの次郎君だからそれを聞く事で郷の夢は次郎君へと伝染同化そして託されたのだ。夢の中の蘇ってからの当初の郷はまるで青年から少年に逆戻りしたかのように駄々っ子めいていたではないか。最終回のあのシーン。次郎君がウルトラ五つの誓いを叫び砂浜を駆けている次のショットにはそれを見守るアキと健がいたはずだ。いや確かにいた。きっといた。なぜならアキと健が死んだのは郷が見た夢においてなのであって現実には死んではいないからだ。そうでもなきゃ救われないじゃないか。なお最終回は郷の結婚という夢落ちではじまることも忘れてはならない。この見解考察そんなに突拍子のないものではない。何故なら同時期初回最終回ともに演出した本多監督は東宝映画ゴジラミニラガバラオール怪獣大進撃においてゴジラはじめすべての怪獣をないものとする夢落ちを実際に既に描いているからだ。こうしていったん怪獣やウルトラマンをないものとする壮大なメタ手法を持ち込んだ事で帰ってきたウルトラマンもオール怪獣大進撃ももう一度大人にとってのウルトラマンとは怪獣とはが問い直される事になり私にとっては人生で忘れられないジュブナイルの傑作たりえている。ウルトラ五つの誓いはあのように宇宙的でもなんでもなくわびしいくらい日常的だ。当たり前だ。郷から次郎君だけに宛てられたウルトラマンも怪獣もいない日常を現実的に生き抜いていく為の遺言なのだから。でも遺言としてなら3.11を踏まえるとこんなに泣ける遺言はない。一つ腹ペコのまま学校に行かぬ事。一つ天気のいい日に布団を干す事。一つ道を歩く時には車に気を付ける事。一つ他人の力を頼りにしない事。一つ土の上を裸足で走り回って遊ぶ事。