2016年4月23日土曜日

ガラモンの逆襲

セミ人間は密猟者である。前回のガラモン飛来によってセミ人間からすると地球全体が無法者たちの猟場と化したのだ。事実非民間当局ここでは大学研究所とされているがそこにガラダマはなぜか押収され管理された。やはり非民間の電波研究所だか監視所だかとかいうのも出てくるがこれにしても何やらうさんくさくさらにその所長だか主任だかの平田昭彦も民間の一ノ谷博士とはうってかわって何やらうさんくさい。なぜガラダマが一ノ谷博士の元に無いのか博士はどこへいってしまったのか平田昭彦のうさんくささはウルトラマンのゼットン星人の時まで続く。幸い高い志しの正義の人だったが。さてセミ人間であるが彼からしてみれば危険きわまりない猟場だしまたその奥の研究所はさらに危険なはずなのにそこまで危険を犯してガラダマを盗みだそうとする。本編はそうしたセミ人間の身になって見直してみるとちょっと不謹慎だが海賊的な無計画ぶりでこれほどハラハラする冒険譚はないといえるくらい面白い。たぶん星の当局者ではなく市井のアウトローの密猟者。星の当局ならもっと大規模で冷酷で綿密な侵略計画を遂行するはず。まさに彼はそのルックスもふくめ地球に落ちてきた男のニュートンにも匹敵する正義とか悪とかを越えた俺的アンチヒーローである。結果的に計画に失敗し密猟者仲間にも裏切られ醜い正体なさらしものとして人柱的に焼き殺されてしまうがそういうところも悲劇的でまさにダークヒーロー然としていてよい。ガラモン編は正編だけでも面白いがこの続編はこれ以上はないと言えるくらいアクロバチックな展開で因果応報プラス哀愁の見事な完結編となっている。

2016年4月22日金曜日

ガラダマ

舞台となるこの地方は昔からガラダマがよく飛来していたとされている。だとすると実はこの地方、もしかすると横溝的な因襲めいた村でもあったんでは。だからこそ真っ先に開発のターゲットにされ、さすがに第三東京市のようなガラダマ迎撃要塞都市化にこそはされはしなかったがガラダマ研究特殊施設化ぐらいのゾーン的な禁制地帯にはされたのでは。ダムとされているが何やらその壁面も謎の施設と外界を隔てる巨大な冷やかな壁のようにも思えてくる。そうなると子供たちも明るそうだが何やらストーカーに出てくる娘やアヤナミレイのように、もしかしたら飛来によって何らかの汚染や精神的影響を受けていたり、もしくは対ガラモン生物兵器化の実験材料な悲しきミュータントかクローンか、とまで考えてしまう。とすると、その子供たちのセンパイとして村に戻ってきている女性ふたりの存在が突飛どころか必然性においても活劇性においても、かなりどころではない重要性を帯びてくる。唐突に終わる幕切れもそうだが子供たちを筆頭に登場人物が中途半端で退場し二度と出てこず、そのままなところとか群像劇仕立てでホラーものによくある描き方なのも堪らない無気味さだ。

2016年4月17日日曜日

ガメラ対深海怪獣ジグラ

昭和ガメラシリーズを見直している。特に後半作は低予算だからか、一つのセットに見せ場が集約させられているからか、舞台感見世物感が濃厚で変に高揚させられている自分がいる。以前から、大魔神シリーズ座頭市シリーズ妖怪シリーズ含めて、思ってはいたのだが、ダイエイってホリゾントの空の変化と懲りぶりがかなりで、雄弁に物語を補填していて見事だな、と。

2016年4月9日土曜日

吸血地獄

吸血地獄、それは、続、真夜中のカーボーイだった。まぁ制作順は正編続編逆になってしまうが。現代人の孤独からくるケミカルやデジタルへの依存は吸血鬼の血を求める渇きとどこか似ている。青年はヤクを調達しようとして接触した不良グループの中のひとりとして初めて少女と出あったのかも知れない、このへんまさに真夜中のカーボーイのふたり。少女は根っからの不良ではなく、金髪、外人、というナリがナリなので、ささいなことで家出し居所にこまり不良グループのだれかのところに一時的に身をよせていたのだろう、このへんもまさに真夜中のカーボーイのふたり。その後、少女は父親とはわだかまったまま、母親のおかげで家にもどったり出たりだったが、青年のヤクチュウと青年の不良グループからの更なる邪教集団への深入りが心配で付き合い続けていたものと思われる。そんな中での駆け落ち的な希望に満ちていたはずの遠出先、そこでの自動車事故、計画の頓挫、悲しい死別。ここまでくるとホント真夜中のカーボーイのふたりと重なる。それくらい真夜中のカーボーイは、吸血鬼ものにすぐにでも横滑りするくらい特撮いや円谷臭をすでにもっていた。いわく、テレビでのウルトラマン、さらに、やたらの十字架とか、カルト信者とか、集会とか、墓場とか、吸血鬼ものっぽい道具だての数々、真夜中のカーボーイの世界、魔都ニューヨーク、そこには溢れていた。とどめは、ジョーが血を売るくだり。なにより、邦題のカーボーイというSF的造語。そう、青年つまりジョーのことが心配で心配で死んでも死にきれなかった少女つまりラッツォは、よみがえりこそ果たし青年つまりジョーと喜びの再会も果たしたが、少女つまりラッツォは吸血鬼への転生という生前の不具よりさらに重く厳しい代償を払わねばならなかった。そして吸血地獄のあのラストである。ここに真夜中のカーボーイの続編としての吸血地獄が成立する。真夜中のカーボーイが十年に一本の傑作青春映画ならば吸血地獄は百年に一本の、超、傑作青春映画なのだ。ということは真夜中のカーボーイって百年に一本の超傑作吸血鬼映画ってことか。ラッツォ、血も吸えない吸血鬼の落ちこぼれ、見えなくもない。