2013年9月9日月曜日
エクソシスト
エクソシストのカラス神父の常用する戦術は悪魔を自分に乗り移らせその状態で自殺するというもの。
それは死ではなく意志の勝利の宣言としての自殺である。
ここでの自殺は、
私は以後肉体を悪魔に手渡すが、
理性は意志をもってして肉体と対峙し意識下に悪魔を封じこめるであろう、
そういう宣言だ。
でも、
ということは肉体は悪魔の支配下にあり、
ある意味不死ともいえる状態で常に意識上にはいでようとする悪魔を封じながら生き続けることになる。
これは人間ならぬ裏ウルトラマン、
デビルマン的ダースベイダー的状態でありカラス神父はまさにダークヒーロー、
アンチヒーローそのものじゃないだろうか。
正義のウルトラマンだから積極的に変身するのだが悪の宇宙人に身体を乗っ取られたら変身しないことこそ英雄的行動となる。
悪魔の肉体をもちエクソシズムを必殺仕事人のように繰り返し、
悪魔の命をつぎつぎと我が肉体にとりこみ更なる善と悪の葛藤にみずからをおいこむ苦行。
ダークサイドとフォース。
それは同時に成就されれば完全無欠な自我、
完全なる理性、
強固な意志の固まりそのものとなるという事。
そういう事なのではないだろうか。
これをヒーローといわずしてなんとしよう。
でもこれにはふたつの解釈が可能だ。
ひとつは彼は意志理性によってすべてをねじふせる近代的政治家的男性的アメリカンヒーローである場合。
ひとつは彼は悪魔たちと不即不離のあいまいな状態を、
不死を悩むことなく全て愛でうけいれ自己犠牲的に身を差し出す巫女的なナウシカのような女性的ヒーローである場合。
カラス神父は、
エクソシストは70年代の作品なのにそれをさきどったかのように今風のナウシカ的ヒーローだ。
いや70年代のニューシネマ的人物像だからこそ、
それは女性的というのではなく、
わらの犬のダスティンホフマンのようなダメ男、
だからこそそれが今風のナウシカ的ヒーローのように見えるだけなのかもしれない。
いずれにしてもいまだ魅力的なヒーロー像であることにかわりはない。
それはマックイーンがジェームスディーン的な恐るべき子供、
そう不良少年にもかかわらず宇宙人と戦い地球を守る、
もしくは凶人トラヴィスがタクシー運転手に踏みとどまる。
その系譜上にこのエクソシストのカラスも位置する青春ローカルヒーロー映画でもあるということ、
そうそれを如実に証明している。
さらにリーガンの変貌を積み木くずし的不良少女化とみれば本作がいかに青春ローカルヒーローヒロイン映画映画したものであるかわかっていただけるとおもう。
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