2017年9月30日土曜日

メカゴジラの逆襲

ゴジラをくわんばかりの、平田昭彦の狂気の名演という点で、その見ごたえはゴジラ第一作にせまる。しかし本作、昭和ゴジラシリーズ最終作というより、怪獣の身体をもたされてしまった、人間電子頭脳とでもよぼうか、女サイボーグその悲恋物語で、子供むけとは到底おもえない、きわめておもくにがい後味は、変身人間シリーズ、その番外編か最終作とでもしたい位だ。強大な破壊力をゆうしてしまい、それを行使してみずからが、その代償をしはらえればよいが、しはらえなく、いきのこってしまった場合の、人間いやもはや怪物の、想像をぜっする苦悩は、原爆爆撃機の乗員や、某新興宗教教祖の例、その後を、かんがえてもらえばよい。余談だが、人間電子頭脳という事で、ナサの計算手の女性をえがいた、ドリームという映画がある。参考になるだろう。

2017年9月29日金曜日

吸血地獄

48時間ごとの殺人をくりかえしながら、はてへはてへとおいつめられていく、わかい二人。死体の遺棄現場にわざわざ、金竜地獄などを、えらんでいるところなどをみると、それがたとえ、まがい物の、仏像テーマパークだとしても、なんらかの宗教性をえたいが為の、あがきにみえる。にくくてころしたのではない、被害者にたいする彼等なりの、せめてものなとむらいの気もちが、いじらしい。やがて青年みずからの血を、あたえる羽目にまで、状況は悪化の一途をたどる。しかしそれさえ束の間。青年は薬物中毒者であり、その錯乱の度あいをます精神、更にはクスリづけの身体。彼女に血をあたえつづけるにしても、絶望的な限界としての、ゴールは目にみえている。そして遂には対岸の島を、しに場所としてえらび、旅だつ。ここからの件は実に荘厳で、まるでインドでの、河岸をめぐる聖地巡礼のようだ。島は、とっくに彼岸にあって、おわりなき地獄めぐりの日々の、二人がやっとたどりつけた、荒涼としたターミナルとしての、ガンジス対岸、その地なのか。よこたわる二人をあらう波音と、バロックな音楽の、アンサンブルは、いかにもゴシック的で、崇高。本作にはポストモダンな宗教の救済が、しめされているようだ、オウム的なそれと対極な。

2017年9月27日水曜日

侵略者インベーダーは隣りにいる

侵略の武器は、プラスチック爆弾ならぬ金属爆弾。マンション上空をただよう重金属ufoも、めちゃめちゃシュールだ。隣室の住人が殺害憑依され、自由に自室にでいりされる恐怖。近未来タワーマンションでの、しらぬ間の、侵略者によるライフラインテロ。最上階ならではのセレブな孤立のこわさが、よくでている。主人公達による決死の救出劇。爆発炎上阿鼻叫喚の最中、等身大のミラーマンが、いきなり廊下にあらわれる。変身道具は瓦礫の中のコンパクト。天井裏の光ケーブルでも移動したのか、目の前に突然、とびおりてきて、女インベーダーをおそう。そのすさんでて、ホラーなかんじは、正に変身人間。崩落の中から巨大な姿をあらわすのも、どこか雪山の悪夢のようで、正にダークヒーロー。オープニングもミステリアスだし、ラストが国際空港なのもよい。セキュリティなど、高度な都市論を内包している。ミラーマン第二話。ライフラインがテーマで、金属感鉱物感で全編をおおう、その作風が何処か、あの変身人間シリーズをおもわせ、それら要素その物が、作品世界その物にすらなっている。小道具やセットの、雄弁な事、雄弁な事。マテリアルかつインダストリアル。もはやポストモダン芸術の域。都会的をこえ都市的。ここに、もうひとつの幻視された、1980年代近未来東京がある。変身人間シリーズの更なる昇華である。

2017年9月20日水曜日

市民ケーン

少年は宇宙金属鉱床といっしょに、かいとられた。母星からおさなくしてひきはなされ、地球でマルチメディア王になった、孤独な異星人の生と死の物語。史上最高の洋画作品かどうかは、うたがわしいが、個人的な史上最高のsf洋画作品には、まちがいない。新聞記者なので裏スーパーマンな悲劇のダークヒーローだし、エイリアンとかの、鉱物運搬宇宙貨物船の、イメージもここからだし。

2017年9月17日日曜日

死体置場モルグの殺人者

淡々と数日間を即物的に心理や幻想をまじえる事なく直線的にえがいていく。そうする事で実質的な本作のメインである死体保存室なるモンスター空間が怪物的に屹立する。形をかえたドラキュラ城である。ゾンビ達は人肉こそくらいはしないがひとしきり活動して棺桶のような死体槽にかえり羊水のようなホルマリンの中で休息する。デロリンマンならぬホルマリンマンだ。何処までふかいのかこの死体槽。錘をつけて底ふかくしずめられている死体は数も歴史も膨大で秘伝のタレのようになってしまっているのでは。それとも時空をこえる冥界との出入口なのか。暗黒宇宙暗黒物質電送装置なのか。死体保存室。それはある意味白い巨塔な大学病院体制を揶揄しているのか。それともウルトラセブン侵略する死者たちの前日談でホルマリン星人の秘密前線基地なのか。怪奇大作戦の初期といいこの恐怖劇場アンバランスの初期といい全部エイリアンなどのハリウッドモダンホラーに総パクられっぱなしだけど実に冒険的偉業だった。本作の途中唐突に登場する坂野なる人物。アッシュかよな最高のブキミアンドロイドキャラ。以上タイトルもモルグ街の殺人にひっかけてたりもするので上記のような筆者のバカ批評もあながち的はずれではないと自己弁護しつつ筆をおく。

2017年9月15日金曜日

歩く死体

ネット上には有料無料あふれる動画がある。その昔はウルトラマンのジラースならジラースがその一週間の間中自分はおろか学級の大半の男子の脳内をしめたしエクソシストやドラゴン危機一髪が一年中脳内にいすわりつづけた。本作のような初期の世にも奇妙な物語の名作も翌日の女子高では話題になっただろう。それほど一作一作のもつ効力がおおきかった。しかし今やその効力は一瞬の物となり誰もが生活のほとんどをささげコレクションのパーフェクトをなしとげたマニアのような倦怠をせおってしまっている。たしかに映画とかドラマとかといいつづけてればそうだろう。けれど動画なるもの。それは映画だろうか。ドラマだろうか。動画は動画。まったくあたらしい何かではないだろうか。はなっから倦怠を退屈さをうめこまれているモンスター。それが動画ではないだろうか。映像による都市伝説とでもいう。自分はそのあいすべきちいさなモンスターを日用映画とよんでいる。本ブログは批評ではない。動画における倦怠や退屈さと対峙しながらあの頃の真にモンスターだった映画やドラマの幻をおおうという無謀なその記録だ。で本題。雪山のセット。なぜこうも効果的なのだろう。ロケではこうはいかない。女の死体をひきずる男の不気味さ。でオマケ。こんな都市伝説がある。みずから殺した弟子の女の死体を人形とおもいこみもしくは人形の中にかくし共に旅をしている腹話術師がいていつのころからか人形にころされるという強迫観念にさいなまれるようになったというもの。第三者の目にはあきらかな腹話術師の狂気だが本人にはそれがわからない。

2017年9月5日火曜日

黒い家

黒い家だけが異常なのではなく、どうやら映画全体の舞台となる、地域全体が異常なようだ。所轄警察はパトカーを使用せず、ヘリや無線だけで、行動しているようにみえる。もしかしたらヘリも、無人遠隔操縦なのかも。ぐるりと地域をとりかこんでいるのは、コンビナートやガスタンクばかりだ。この地域は隔離された、工業廃棄汚染物質に汚染された、高度汚染地帯なのかも。すむ住人達も、コンビナートのむこうの、正常な地域からすてられてきた、ハイジンばかりなのでは。それを保険会社としょうする、当局がデータベースで、管理しているのかも。さらにもっといえば、ハイジン同士で、当局によって、コンビナートのむこうから、保険金殺人ゲームを、えんじさせられているのでは。しかも不動のはずの、データベースを、当局に作為され放題で。その当局とグルなのか、本社、なる存在、すごく不気味だ。森田芳光監督。1999年。