2018年7月28日土曜日

闇に牙をむく女吸血鬼

郊外の工事現場にまよいこんでしまった女ドライバーの車。ほりかえされた土にタイヤをとられ四苦八苦しているとなんと目の前の土中から二本の手が。筆者偏愛の怪奇大作戦吸血地獄冒頭をおもいだす。このあたりのぬかるみに足をとられる的な身体感覚のもどかしさにうったえかけられるような場所えらび。でたゾンビ。いやいや女吸血鬼の復活に不幸にもこの女いあわせてしまったということなのである。腰がぬけんばかりのいきおいでたすけをもとめもどってみるとそこにはなにもなかった。この唐突さそして手ごたえなさがまたよい。吸血鬼像も怪獣的で砂漠で発見された被害者などは血液が猛暑ですべて蒸発したなどというトンデモな検死にされてしまっていたりする。本作で吸血鬼退治の相棒となるのは文学ずきの不動産嬢。彼女との出あいの場がなにやら超越瞑想の少年導師の旧邸宅。ラスベガスにすんでいた超能力アイドルってか。結局この少年最後まで姿をみせずだがなにやら間接的に吸血鬼退治に寄与しているようでなにやら不気味で格好いい。姿をみせないヘルシングってか。相棒の彼女といえば直接アクションでみせたりしないがとぼけたふりして吸血鬼を静的においつめていっているような印象。ワトソン的な知性派相棒をかんじさせなにやらとても新鮮。謎の吸血鬼退治組織でも存在しているかのよう。そうなるとコルチャックが無謀にもおびきだし作戦をしようとしたホテトル吸血鬼だが途中でチェンジさせられたあたりの事情にはなにやらそんな組織がなにげにからんでいたりしそう。あとネタバレラストになってしまうので簡単にしかかかないけれどポストモダン仮想都市っぽいどこか幻想的というよりバーチャルでシミュレーショナルな最終対決シーン最高。筆者偏愛のウルトラセブン侵略する死者たちk地区廃墟をおもいだす。一本の独立した吸血鬼映画としても本作相当な名作。テレビドラマ事件記者コルチャック吸血鬼エピソード回である。

2018年7月25日水曜日

アンドロイド0指令

団地の広場レトロなおもちゃに屋上の遊技場そして操車場の隅の廃屋。昭和の子供なら身体レベルでの既視感でこれらはせまってくるはず。ゼロワンとよばれるアンドロイドはその死体のようなマネキン姿。からの変貌が父としんだ娘をおもわせ設定からかなんなのかどこかいやにやけにゾンビめいてかんぜられる。深夜の無人デパートシーンはリアルタイムでの視聴のときも最高だったがいまはさらにである。どうしようもなくあのショッピングモールにしかみえず。どうしようもなくあのロメロゾンビのワクワク感をもよおさせられる。エレベーターがひらくと同時にあらわれるところとかもうちびりそうになる。当時の冷戦空気感のせいなのかおもちゃ小道具子役大量投入のせいなのか子供たちの反乱シーンはやけにちからがこもっていてまるで世界終末戦争のドキュメンタリー映像のような様相さえおびてみえ背筋につめたいものがはしる。まさにゾンビの世界観。怪奇大作戦吸血地獄のときのようなゲストマドンナ編で。レギュラーマドンナがはじかれているからかやはりどこか異質なかんじのするウルトラセブンその一編。

2018年7月23日月曜日

屋根裏の散歩者

ウルトラマンやエヴァンゲリオンの監督や脚本だからか本作はもはやsfにおよんでしまっていてあのラストはとある発端にしかすぎなかったのではないだろうか。主人公はそのご明智いやすべての人間のまえから姿をけしたのではないだろうか。彼は屋根裏の街そう現代つまり彼にとっての理想の未来われわれにとってはありふれた街のありふれた住人になってしまったのではないだろうか。インターネット社会という。以下そんな彼ののこしたであろう手記みたいなものをかいてみた。某月某日。最初は屋根裏の散歩者をきどってのぞきにせいをだしていたけれどある日ふと屋根裏の隅に外へのくぐり戸があることにきづいた。外にでてみるととなりの屋根がすぐそこにあった。でもあぶないのでその日はそのままひきかえした。あくる日玄関から裏にまわってあのくぐり戸のあるあたりをみあげてみたがなにもなかった。あの日いらいのぞきはやめてしまいくぐり戸の外の街の虜になっている。となりの屋根からまたそのとなり屋根づたいに地上におりられそうな建物をみつけ地上におりたったのだ。郷田三郎。

2018年7月20日金曜日

廃校綺談

あの夏やすみの最中の登校日とは逆の意味でゆるい学校。のようなもの。がえがかれている。廃校当日。ついに当日にいたってしまったということだ。その非日常空間とかしてしまった学校。それはまさに廃校。廃品の集積。すでに死臭ならぬ廃墟臭がそこかしこたちこめはじめている。午前中にかえってしまう者もいれば数人でコンクリートの壁をたたきこわしはじめている者もいる。不気味な無法地帯。しかしそれら反抗や暴力にわかさや開放感はかんじられない。ただただ陰気である。晩夏の午後のようにけだるいばかり。学校がおわるが世界がおわるにつうじている。そういう意味でも廃校ものというものがもしあるとすれば立派な古典的傑作である。半廃墟というものの不気味さ。大あばれしたくなるような気もちまでもがそがれてしまう魔界。もうひとつの台風クラブ。そして家族ゲーム。そんなあの時代の無機的空気感が充填されたかのような本作名作である。ホラーというより終末ものとしてみたほうががぜんしっくりくる。まぁ不思議な監督である。終末監督といえばキューブリックだが。世界に氷河期がおとずれようとしているのか。いやもっともっとおおきな終末のおとずれの予兆なのだろうか。透明なモノリス。学校の怪談fのなかの一本。

2018年7月19日木曜日

キングコング(1933)

まずエジプトのような古代の超文明によってきずかれたとされる孤島を二分する巨大な壁の存在が不気味。だって壁のむこう側の原始世界があまりにもすごすぎる。進撃の巨人まっさおなほどに残酷過酷。それを制御するほどの強固な壁が古代にとっくにつくられていたとは。もしかしたら原始世界そのものもバイオテクノロジーで古代人がつくったものなのでは。とにかく不気味だ。たしかに太古の森がのこっていただけというにはあまりにも不自然きわまる多種多様のモンスターで異常すぎる生態系なのだ。つまりなにがいいたいかというと本作怪獣映画として古典だとかどうとかいうよりこうしたその謎設定バイオ設定壁設定のほうがいまにしてみるとゾンビシリーズはじめジュラシックシリーズまでホラーからパニックからなにからその影響がおよんでいるというその現実。そここそにセンスオブワンダーがある。だからリメイクでいくらコングの造形だけにこだわっても成功しない。あの孤島のあの原始世界の不気味さが表現されてこそなのだ。あとそれに呼応する当時のニューヨークのいかがわしさ。まさにギャングで娼婦な輩ばかりのようにみえる。キングコングはそんな新興ヤクザをぶちのめす昔ながらの大親分ヤクザのようで爽快だ。本作はそれが演技から演出から美術から音楽からなにからなにまで的確に表現されきっている。その点がなによりすごい。壁をつくった謎の超高度古代文明それはあのゴジラ第一作のオキシジェンデストロイヤーなるやはり謎の超科学物質の存在その不気味さをおもわせる。体現する芹沢博士のそのダークヒーローすぎるキャラと見事な演技そしてその屋敷その雰囲気。だからゴジラ第一作もすごいのだ。そうそしてなによりもおそろしいのはこれら謎の超高度古代文明を。謎の超科学最終物質を。制御する能力もないくせにときはなつことだけはできる現代文明のいびつさ。そしてそれが一切回収されない不気味さ。それにしても本作もゴジラ第一作もそのラストシーンである。怪獣の最期をえがいて哀愁をさそう以上に世界のおわりそうみえてただやるせないただただあっけない。無常感あふれる幕ぎれだとかんじるのは筆者だけであろうか。美女に野獣がころされたただそれだけ。つくづく芹沢博士もキングコングだとおもった。付録。怪獣映画としてのゴッドファーザー。つくづくこのビトーという男は怪獣でゴッドファーザーは怪獣映画だったんだと。キングコングが南洋の孤島うまれなようにビトーはシシリー島からニューヨークに上陸してきた。キングコング1933をみておもったんだけど上陸したニューヨークのあのあの時代だからこそのいかがわしさがあってこそコングははえたし存分にあばれることができた。そうおもえてしかたない。これはまさにビトーにこそいやコルレオーネ家にこそあてはまる。長男ソニーの最期はまるで自衛隊の一斉攻撃のようであったしビトーの最期が怪獣の真似だったというのもまたひどく皮肉的であった。そして三男マイケルは怪獣をたおすクールな科学者そのものでそれをみずからの内部にかかえるコルレオーネ家という怪獣の。闇のふかさ。業のふかさ。そしてそれは最愛のマドンナである娘を目の前でうしなうというパートⅢでメカゴジラの逆襲のごとく怪獣映画としてきわまる。

2018年7月18日水曜日

先生好きですッ!

これは国立大卒のエリート女子大生がでも高卒のドジでノロマな女の子がでもなくイッパシのスチュワーデスになるまでをえがいたものではあるけれども。最新型のaiをディープラーニングさせてイッパシのスチュワーデスにするまでをシミュレートしてみせた一種の星新一の長編sfみたいなドラマである。平井和正小松左京のようなはすっぱでいろっぽい日活東映東宝松竹アンドロイドではなく星新一ないかにも大映増村調のもえるアンドロイド演技を存分に二十一世紀アイドル文化視点で堪能し再評価すべきsf作品。おニャン子クラブとかこの今わすれられていそうなダサい型の70年代的アイドルなるもの。今一度考察されてしかるべき。脇役のホラーアンドロイド片平なぎさも重要なのであわせて考察。無人のモックアップ疑似空間にまよいこんだり。ビデオマルチビジョンによる全自動カリキュラムにあかせての授業中のあいびきだったり。わらうというのがポイントとなるアンドロイドあるあるだったり。かなり本格的にsfチックなあじわい。もはや1本の劇場映画のよう。スチュワーデス物語。第一話。ポストモダンのアンチヒューマンエイジにおいて近代をえがくということはアンドロイドをえがくということと等価だ。

2018年7月17日火曜日

ヒエロニムスの下僕

ずばり本作筆者的に下水道映画の大傑作とさせていただく。男がハンカチを液化されたさい。手の平の一部も液化されたのか。いたそうだった。ヒエロニムスマシーンの作動音はまるで排水口がたてるあのゴボゴボいう不快音そのもので下水道映画マニアとしてはたいそう心地よく興味ぶかかった。本作。そんなウルトラqダークファンタジーのなかの一本。さかのぼりウルトラq2020年の挑戦での人間消失だが。あれは素粒子化して異次元にとびさったわけではない。一瞬のうちに液体人間化しそうみえるだけ。水たまりに足をかけた瞬間きえているようだがそうではない。水たまりと同化してしまったのだ。冒頭に謎のスライムが登場しそれに接触して人がきえているのをおもいだしてほしい。あれはまさに映画美女と液体人間そのもの。さらに。しらべると。スタッフも意識して意図的に映画の設定をテレビにもちこんだとかかれている。ということで以上をふまえての本作の解説である。ぜひよんでふまえてほしい。本作はそれでその不気味さこわさが二倍ましになるのだから。かさねがさね本作筆者的に下水道映画の大傑作とさせていただく。脚本の高橋洋はやはりリングという下水道映画をものにしている。レンタルビデオ屋の床下に古井戸があってそこにはやはり恐怖の液体人間貞子がひそんでいた。そんな映画だ。下水道世界なるものを可視化したラストカットの冒険も見事な本作ヒエロニムスの下僕だが液体人間は井戸地下水道下水道がその棲息域だ。液体ということで液晶画面のなかにもはいりこむことさえできる。インクや現像液にまぎれポスターや写真にもはいりこむことさえできる。一種の二次元人でもある。リングも本作もテレビやビデオのなかに人がとじこめられる。それはほんとうに気もちわるいイメージだ。かくして。液体人間たちはいつもはくらくふかい魂のダークサイドをおもわせる下水道世界のなかで悶々としているのだが。雨ふりの夜など窓にべっとりはりついたり。液晶画面から液晶画面をわたりあるいたり。して。液にふれたものをやはり液体人間にしてしまう。謎を謎のまま。

2018年7月16日月曜日

プリズナー

ネオンサインのきれかかったつぶれそうなビデオレンタル店。どうやら郊外の裏どおりに位置しているらしい。ショッピングモールの一画か。その。声がひびきわたるほどのひろさ。客足のすくなさ。店のまわりにビルもあかりもなさそう。そのどこかトモダチに冷凍工場裏のアソビバでみすてられた黄昏時のような。うらさびしさ。竹中直人のその廃怪人っぽさはこの後の実際のネットカフェ難民やネトゲ廃人の大量発生をかんがえると世紀末ゾンビ現象のはじまりのようで薄気味わるい。なんかその風体が一番おそろしい。しゃれたオチも文字どおりのさむざむしさだ。当時はもりあがるホラーだったのだろうが今みるとオウムやバブルのあの時代のひややかな空気感の方がつよく刻印されてしまっている。そしてやはり本作も下水道映画の傑作である。主人公が吸収されてしまった場所あれは牢屋のようにみえるがあれは地下水道施設によくある鉄の柵それにあれは他ならない。事実水のしたたる音を当初あの空間ひびかせていた。魂のダークサイド。ダークマターにみちた暗黒宇宙。そんな下水道世界。本作はそのタイトルからもわかるとおり。ビデオをめぐる都市伝説ではおわらず。もっとひろく二流三流文化つまり廃品のようなジャンクビデオをはじめ。スカム作品ばかりめでてきたような筆者のような今もネットの底にうずまいているような下流無名ブロガー水子表現者の乱泥流。つまりハイカルチャーを上水道とするならば下水道文化としてのサブカルチャー。アンダーグラウンドの汚水にまみれすぎてそれが実体化したような人々。文化ゾンビとでもいおうか。理系ゾンビはナニカト話題になる。かといって文系ゾンビにもなれなかった帰宅部系いや金もコネも汚部屋さえももてないヒラキコモリ系サラシコモリ系ゾンビ。そんな人々のことをえがいている。そういう意味での下水道映画で。しっかりその雰囲気がでているという意味においても。本作。筆者。独断で傑作とするものである。竹中直人の役の男のような出自の男がすくなからず街の雑踏にはまぎれており今日もあてどなくさまよっている。そんな気にさせられる。世にも奇妙な物語。初期の傑作。

2018年7月15日日曜日

そこに扉があった

nhkでドクターgなるものをやっていたんだけれどそれの精神疾患バージョンをやったらおもしろかろうなどとおもうが。精神疾患の場合あぶなっかしく。必要以上に快癒しすぎてしまったり投稿を癖にしてしまうようになったりされたら局や番組は責任とれないだろう。心配になってしまう。まさにこれがそれである。世にも奇妙な物語初期の作品。全編どこか殺人恐怖症の女の幻覚っぽい。いやそのホラーともなんともつかないちょっといい話的素人投稿体験談風でおもわせぶりだったのに肩すかしなかるいおわりかた。ブックオフで108円でうられているケータイ小説のハードカバーをひさしぶりにひらいてみたくなってしまった。巷にはいわゆる謎映画なるものがある。あまりにも回収されない伏線かとみえる場面がありすぎたりなさすぎたり。ただどうでもいいような細部がやけに印象にのこる。が。トラウマというほどでもない。ローカルテレビ放送された吹替のふるいb級映画や再現フィルム啓蒙映画ポルノ映画なんか。そんなそれらとしてよくであったやつ。よくみうけられた現象。あれである。意図的な場合もあるし。つくり手の手ぬきやつたなさの場合もある。ヘタウマの絵や音楽にも共通しているかも。終始どこかういているかんじのする登場人物の演技。わざとなのかういういしさなのか。演出にもへんに力がはいっており。なにやらケレンミたっぷり。おまけに。ある夏のこと。ときた。帰郷した村での怪奇体験がどうとかこうとかといったあまりにもいつかみた感どれがどれやら感あふれる設定。こうなると夏やすみ。ドロドロにとけそうになりながら。まどろみつつみた。午後の再放送。誰からかりたのかももはやわからなくなってしまったビデオテープvhsなのかベータなのかどこか変な形をしているようにかんじられ仕方ない。atg映画だったのか自分たち高校生が文化祭用に制作した8mmフィルムだったのか。あれは夢の中での出来事だったのか。あれはテレビの中での出来事だったのか。あれは。あれは。とおくで蝉の声ばかりしている。そしてその蝉のその声はただますますあたりへとかぎりなくはてしなくただただましていくばかりなのであった。

2018年7月12日木曜日

管理人

世にも奇妙な物語のなかの伝説的傑作のひとつ。まるでカフカの城のあのへんな名前の城主のように存在するのかしないのか。あらゆるところに遍在する管理人。面会しようとすればするほどとおく曖昧になっていく所在そして自己増殖していく魂の迷路のようなマンション。すべての部屋に管理人室の表札がかかりはじめ。近未来相互管理ディストピア社会への社会実験のようにもみえはじめはじめる本作。電話や留守電による誹謗中傷はスマホ時代の今からすると牧歌的ですらあるが膨大な量のハリガミやとぎれることのないファクスによるそれは今からすると逆に相当暴力的で何気に圧倒される。中途半端に身体的痕跡をのこす紙という物質の薄気味わるさ。タイプされた文字の匿名性とニコ動の弾幕やエヴァのような異形フォントの乱舞。それが3dで重味をもってせまってくるのだから。これはこわい。追伸。筆者セブンイレブンネットプリントにて。管理人なる名義でファクス攻撃。いやいや。ならぬ折本ホラー小説。をかいている。興味あれば管理人でツイッター内を検索してみてほしい。本作の勝手なファンによる未公認スピンオフ納涼ホラー企画みたいなもんである。プリントアウトして。きって。おって。つくって。本作の異形なファンジンとしてでも手元においてやっていただければなどともおもったりもしてもいるけれどもそれもこれもあれもどれもどうなりますことやら。

2018年7月11日水曜日

ゴジラVSデストロイア

デストロイアは東京湾にのこっていたオキシジェンデストロイヤーがやはりのこっていたヘドラ細胞に浸潤して成長したものとかんがえると本作はゴジラ対ヘドラ以上に汚水感あふれる設定の下水道映画だとおもう。ただ筆者のなかではゴジラ第一作のあと地球はオキシジェンデストロイヤーの汚染拡大によって破滅したことになっているのでちょっと複雑なところではある。でもそれはデストロイアの造形のまったくいきあたりばったり形態変化もはや不定形といってよいトンデモさ。そのナイスさで帳けし。造形などどうでもよい種類の怪獣というものもいるのである。上記のようにデストロイアはその出事こそがすべてなわけで一種の仮想3d便宜キャラ。そして映画自体全編まるごとシミュレーションとみるべき。そうすると評価はまったくかわってくるはず。ヘドラにもそういうところがすでにあってそのドラマパートのサイケさとあいまって一部からの一種の悪夢オチ作品そんな評価も定着しているやにきく。本作にもあの奇妙なアニメパート的なものがあればなどとつくづくおもう。やっと初期のcgがわらえるところまで時代はきているのでもうすぐだとはおもうが。だから本作においてはゴジラ対ヘドラいやそれ以上のトンデモ異色ゴジラ映画としてさらなるその方面での再評価を筆者のぞむものである。ただゴシラしすとあまりにも哀感あふれるあおり。よい意味でもっともっとちゃかされてもよいので都市伝説的あかいゴジラなどと話題にのぼってほしいものだ。もったいない。なお美女と液体人間の液体人間その第一号こそ筆者ゴジラ第一作の芹沢博士その後の姿だとおもっている。芹沢博士はいきていてそしてそれがアップデートされ気体化可能に。陸上においてもその能力が発揮できるよう改造されたのがガス人間第一号なのだ。さすがにガス人間にふれた人間がガス化するところまではえがかれてはいなかったがガス人間作中でかたられていたもうひとりのガス人間。もしくはその痕跡。第一号の触媒となったあの謎のガス人間第零号。彼こそ芹沢博士だったのでは。零号には接触ガス化能力があった。そうおもわれる。そして液体人間第一号にしてガス人間第零号なる芹沢博士はどこかにまだいきている。ガス人間第零号なにせ対ゴジラ編も計画されていたくらいだ。ガス人間いや人間オキシジェンデストロイヤー彼こそ地球最強戦士である。いやもはや怪獣か。これこそが真のゴジラ対デストロイアである。ヘドラをもしのぐ大東宝大公害大怪獣。スモッグ巨神兵登場。ヒトリノストラダムスノダイヨゲン。その地球規模の絶対的環境破壊能力はゴジラさえもなきものにする。

2018年7月10日火曜日

ロッキー

黒人のキングに白人のチンピラが挑戦するブラックスプロイテーションムービーとしてもういちどみなおすべきだ。その有名すぎるあの音楽の。ファンクとしてのみなおしもふくめ。いかにもサタデーナイトフィーバーやブルースブラザーズやもえよドラゴンと同時代の。濃厚ソウルフレーバー。しっかりかみしめようではないか。

2018年7月2日月曜日

ひき逃げ(1966)

あのひっきりなし車が爆走する横断歩道なしの信号なしの車線なしのせまい国道のようなモノあれはもはやバケモノだ。この誇張はマジックリアリズムの小説や絵画の域でさすが芸術家カントク。ありえないモノを実写で工夫してうつしだすという点においてはもはや本作東宝怪獣映画ソノモノのセカイ。たぶんあれは。巨大なオープンセットでよくみるとおなじ車が何度も画面にでいりしているはず。それにしても。そんなセット撮影をロケでなく現実にやってしまいそれをシネスコサイズでみせきってしまうところに東宝の当時のもはや狂気とさえいえる大特撮大志向がうかがわれ先がおもいやられるあくまでもよい意味でたとえばノストラダムスの大予言にいきつくとかの。さすが。黒澤明や石井輝男にリスペクトされるカルトカントク。まさに。スクリーンでみせる地獄スペクタクル交通地獄編。