2016年4月9日土曜日

吸血地獄

吸血地獄、それは、続、真夜中のカーボーイだった。まぁ制作順は正編続編逆になってしまうが。現代人の孤独からくるケミカルやデジタルへの依存は吸血鬼の血を求める渇きとどこか似ている。青年はヤクを調達しようとして接触した不良グループの中のひとりとして初めて少女と出あったのかも知れない、このへんまさに真夜中のカーボーイのふたり。少女は根っからの不良ではなく、金髪、外人、というナリがナリなので、ささいなことで家出し居所にこまり不良グループのだれかのところに一時的に身をよせていたのだろう、このへんもまさに真夜中のカーボーイのふたり。その後、少女は父親とはわだかまったまま、母親のおかげで家にもどったり出たりだったが、青年のヤクチュウと青年の不良グループからの更なる邪教集団への深入りが心配で付き合い続けていたものと思われる。そんな中での駆け落ち的な希望に満ちていたはずの遠出先、そこでの自動車事故、計画の頓挫、悲しい死別。ここまでくるとホント真夜中のカーボーイのふたりと重なる。それくらい真夜中のカーボーイは、吸血鬼ものにすぐにでも横滑りするくらい特撮いや円谷臭をすでにもっていた。いわく、テレビでのウルトラマン、さらに、やたらの十字架とか、カルト信者とか、集会とか、墓場とか、吸血鬼ものっぽい道具だての数々、真夜中のカーボーイの世界、魔都ニューヨーク、そこには溢れていた。とどめは、ジョーが血を売るくだり。なにより、邦題のカーボーイというSF的造語。そう、青年つまりジョーのことが心配で心配で死んでも死にきれなかった少女つまりラッツォは、よみがえりこそ果たし青年つまりジョーと喜びの再会も果たしたが、少女つまりラッツォは吸血鬼への転生という生前の不具よりさらに重く厳しい代償を払わねばならなかった。そして吸血地獄のあのラストである。ここに真夜中のカーボーイの続編としての吸血地獄が成立する。真夜中のカーボーイが十年に一本の傑作青春映画ならば吸血地獄は百年に一本の、超、傑作青春映画なのだ。ということは真夜中のカーボーイって百年に一本の超傑作吸血鬼映画ってことか。ラッツォ、血も吸えない吸血鬼の落ちこぼれ、見えなくもない。

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