2016年11月20日日曜日

袖志の女

では、なぜ一刀は死を覚悟したコクゾーにゲセヌかたちで勝利できたのか。コクゾーの電送剣界においては勝利なるものは生命力や無や空や偶然ギリギリのラインで決するとされる。コクゾー戦の後、深手を負った一刀を村の女達が敵討ちせんと刀を向けるが、そこでの勝負の決し方も何故そうなったかを見せない演出になっている。一刀が返り討ちにしたのか女達が暗黙裏に一刀の余りにも深い女達への共感の思いを感知し自刃したのか。そう、このギリギリの線での自殺か他殺か幇助かという事象。これを犯罪のトリックとして使った作品がある。大岡昇平の事件だ。映画化もされた。実は本エピソード袖志の女はトンデモなsf作品めいて見えるけれど、そのテーマは大岡昇平作事件と同じものであってトンデモでも何でもなく実に深い人間の根源さえ問うものだったのだ。加害者と被害者の余りにも深い共感のせいで自殺か他殺かが最早、物的証拠ではボーダー判別できないレベルの犯罪。わかりやすい例で言えば心中のカタワレが生き残ってしまうケースである。彼は彼女は殺人者なのか犯罪者なのかギリギリのボーダーでしか最早、語ることができない。もう一つは帰ってきたウルトラマンの郷秀樹のように自らの身を犠牲にして何物かを救う行為。これは自殺なのか事故なのか災害なのか。その結果の死。前者が純愛ゆえの心中ならば、これは愛国心ゆえの特攻が例と成ろう。そこからトンデモないドラマが生まれる。トンデモない謎の闇。闇ゆえに安易なヒューマニズムを越える実存の可能性のヒカリもそこにはある。どうしてもヒロイックなものカッコイイものを作り手も観る側も求めてしまう業の深いジャンルとしての特撮や時代劇などという物は矢張、最終的には、その境地を目指すものなのだろうか。

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