2016年9月8日木曜日

虹の卵

開発都市への途上にある村。村の古老なのか、言い伝えを子供たちに聴かせる。子供たちは開発都市流入組の子供たちなのだろうか、村の自然が珍しいのか冒険しきりで遊びまわっている。土着の怪獣が現れ開発都市へ輸送中のウランが紛失する。子供たちの児戯のおかげかウランは無事発見、過程で村の古老とも子供たちの心は深く通う。開発都市は怪獣のため全壊、都市計画は頓挫するのか加速するのか。少なくとも、そんなことより、人と人の心が通い会うことのほうが、まず必要。そんなことを言っているように思うが、どうだろう。1960年代までは本作のように山間の開発がテーマのものがメインでダムやトンネルなど、ウルトラqやマンにはそんなのが多かった。あと怪奇大作戦の霧の童話とか。しかし1970年を境に開発対象は海側のほうへとリアルが移ったように思う。それを踏まえ、本作や霧の童話を脳内で海側に舞台し直して鑑賞してみる。そんな視点で私的問題作モスラ対ゴジラを、無難作ガメラ対ギャオスの収まりの良さと比較してみると面白い。当時1960 年代前半作キングコング対ゴジラも三大怪獣も大戦争も山間系なのだがモスゴジだけが海側系。そのせいなのか、モスゴジだけが際立ってエコ的文明批評要素が自分的にはブレブレに見えるのだ。以後しばらくゴジラシリーズは、このエコ要素を放棄。対ヘドラに至り復活したかに見えたが、やはりブレブレは続き、今に至る。ブレブレで良しとする今風派の人は、それでもよいだろうが、古い人間の自分にはどうしても引っ掛かる。怪獣には、特撮には、常に、エコ要素な環境問題とセットであって欲しい。その点、真の?怪獣ものとしての怪奇大作戦の素晴らしさよ。

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