2018年10月23日火曜日

ウルトラの星光る時

とにかく帰ってきたウルトラマンのよいところはヒーローがめいっぱい人間くさいところにつきる。だからこそ弱点とさだめそこを宇宙人がついてきた。でも帰ってきたウルトラマンはそれでよい。たたかうことがへたなあいすべきウルトラマンでよいのだ。帰ってきたウルトラマンはたたかうヒーローではない。そもそも帰ってきた。なのだ。では。なんのために。そもそも帰ってきたウルトラマンとは。もはやその時点でお盆に帰ってくる先祖の霊っぽい。よわきゆえ神にあいされ奇跡をまねきいれる。そんなイケニエ的存在なのだ。そもそも初代とセブンは今回なんのためにかけつけてきたのか。いっしょになって戦闘力でもって敵とたたかうそんなことのためではなかろう。星をつくるため。こころみだれたウルトラマンがみうしなった指針たる星。そう。そんな星。ウルトラの星。それはつまりハヤタもダンも本作でのあの制服姿。筆者の目にはどうしてもしっかり英雄的戦死死者としてうつる。死者。聖人。伝説的存在。つまりいちはやく星になってしまってひさしい存在。その星たることを郷に人類に再確認させるためにいまこの世にふたたびあらわれた。坂田兄妹も制服こそきてはいないが立派な英雄的戦死だったのだ。なにかそれは潜伏キリシタンを正式におみとめにやってきたローマ法王をおもわせる。それは崇高であると同時にある意味とてもかなしいことでもある。なぜなら奇跡は慰問はいつも差別を無視を惨禍を前提としているからだ。本作もそんふうに。しかしだからこそ。坂田兄妹の英霊をしっかりと星へと昇華させることができたのもおなじ星たる初代とセブン。ハヤタとダンだった。ということがかたられているのではないだろうか。かなしみはかなしみでこそこえうる。結果。郷の魂は浄化された。最終回。次郎くんはウルトラの星がみえるようになる。そのウルトラの星の郷自身による。みうしないと再発見。それこそが今回かたられているテーマなのではないだろうか。郷に自身をみせたい。ただそれだけのために初代もセブンもかけつけたのではないだろうか。たとえ亡霊であっても。そうじつは鎖をきったのはウルトラマン自身。それだけのことでありそれでよかったのだ。復讐心によってではなく奇跡とよぶしかないような神聖なるなにものかによっての世界の浄化。怪獣にたおれた初代とセブン。宇宙人に惨殺された坂田兄妹。彼らこそが郷の。そしてさらしものにされたウルトラマンをみせつけられた都民の。そしてテレビの前のよいこの。それら魂を浄化し地球をすくった。そんなふうにおもえてくる。じつは帰ってきたウルトラマン。ほぼ同年の東宝映画日本沈没にその心性すごくよくにている。かなしいけれどそこがなによりも感動的だ。十字架にみずからかかってくれたキリスト。のように。本作。クリスマスとか聖母的な女性のありようとかがあきらかにドラマに希望の色彩をあたえている。死と再生。クリスマスとはなんだろう。ふとかんがえさせられる。それは人間としてうまれおちた神をいわう日。でも神が人間としてうまれるということは人間としてしぬという運命をせおわなければならなくなるということでもある。クリスマスとはそういうかなしさきびしささえ内包した日ともいえるわけだ。郷はこのイブの夜。次郎を人類をまもるためしぬことを覚悟したのではないだろうか。ここで前回のあのショッキングな屋上からの投身自殺型変身ポーズも意味をもってくるのではないだろうか。あれがあきらかに肯定的なものだったと。最後にかなしさということでいえばみせしめひきまわしさかさはりつけのウルトラマンの姿にはなんともキリシタン迫害めいたものを筆者かんじざるをえないのだがどうだろうか。

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