2018年9月5日水曜日

白い顔

しろい顔という異装は中性的でありノーマンベイツの女装をおもわせる。そう本作はあのヒッチコックのサイコをおもわせる。めんどくさそうな男と女のオフィスラブではじまる。タイトルバックもスタイリッシュだ。女が車をとばす。表むきはちいさな町の名士の理想的な父娘。近親相姦めいた父娘関係がしだいにうきぼりになっていく。都会のオフィスから山の中の屋敷へという舞台の移動。この娘。週一で帰省しているようだが一人ぐらしではなかなか奔放なようだ。今回の事件をきっかけに一人ぐらし前のような二人ぐらしにもどり不自由な父への献身をみせるがたがいの疑念はピークに。そこへやはり疑念をもつsri二人がのりこむそんな後半。屋敷のそばにはやはり沼がある。地下室での格闘もおなじだ。ラストはしっかり警察につかまる。沼のほとりでなのはもしかしたら母親の死体が沼からあがったのか。本当によくにている。ただ本作においてはサイコの不気味なラストとはちがって。しっかり子供への教育的配慮がなされ犯人の犯罪的心理病根は克服されおわる。健全な親子関係にもどったそう暗示されたおわりかただったようにおもう。気になったあまい大映ドラマ調のbgmも最後にばっちりきまる。たださらされる犯人の素顔は子供にはちょっと衝撃的だった。でもそこには真の成長とはいたみがともなうといわんばかりなただ単にめでたしめでたしではおわらないそんな気骨もあらわれてそうで好感がもてた。そうなのだ。怪奇大作戦初期のエピソードはどれもがショッキングな描写をともなったが最後にはどれもがどこかにかすかなすくいをはらんでおわっていた。このバランス感覚がスタイリッシュだったのだ。モダンだったのだ。これはいまとなってはとても貴重なことで筆者個人的に怪奇大作戦初期を偏愛する根拠ともなっている。それが回をおうごとに描写がおとなしくなっていくぶん事件はあまりにもおもい余韻だけをのこすようになっていく。それはそれでよいのだがどこかシナリオ偏重で説教くさくもある。たしかに怪奇大作戦中盤の豊穣さには見事なものがあるにはあるが。それどころかさらに回をすすめればすすめるほどすくいなくたちきられるような不条理なおわりかたにさえなっていく。こうなると誰にもすすめられるエンタとはいいがたくマニアックなオーラばかりがましアートへと傾斜堕落したものとしかいえなくなる。あくまでも個人的意見だし当時のベトナムや冷戦の危機的状況からののがれられない闇かとも。そんなわけで立派だが何度もみてたのしめるというタイプものじゃない。だからこそ初期のエピソード群は偉大なのだ。そうあの映画サイコ第一作のように。ポップとかモダンとかそうした60年代のよさってなんだったのかをかんがえさせられる。

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