2018年4月22日日曜日

ゴッドファーザー PART III

ゴッドファーザーがニューシネマだと筆者する理由に。そしてゴッドファーザーシリーズがニューニューシネマとしてスピルバーグやルーカスの一連の例の人気シリーズものとおなじようにコッポラにとってのそれだと筆者する理由に。ゴッドファーザーはギャング映画ではないという筆者の見解がある。そうゴッドファーザーは戦争映画だ。それもベトナム戦争を発端とし冷戦構造に集約される。恐怖での敵の鎮圧という劇場型のナチズムさえこえたテロ型最終戦争ポストモダンウォー。ポストモダンウォーに勝者も敗者もない。はじめもおわりもない。ただ地球規模の汚染が心身に蔓延し内的宇宙が精神のダークサイドにのみこまれ魂のすべてが泥沼と化す。それもこれもすべてダースベイダーやカーツ大佐につながるマイケルコルレオーネの新人類な人格によっている。それどころかその後コッポラはそんなやはり新人類な実在のある人物の伝記映画さえ手がけてみせる。日本のある作家だ。みずからの遺作を隠蓑にその最終回を無惨な形で自壊させるとみずからはといえばホラー映画のダークヒーローを夢み実際そうなってしまった。そんな作家。コッポラはしななかったけれど本作以降その関係作品はやはりホラーよりの方へと傾斜していった。そう本作はホラーオカルト作品。エクソシストのような。そうみると。両作すくなくとも賛否両論青春派女優が主演をつとめ。よいかんじなb級感で。共通している。そのようにみなおすと。そういった身内贔屓な欠点すら。いとおしくなり。マイケルが慟哭し一瞬でふけきってしまう荒唐無稽さ。あの特殊メイクすらよくおもえてくる。この大シリーズを完結させるためには。特撮の技術の進歩をまつしかなかった。見事な大団円。

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