2018年2月2日金曜日

吸血地獄

真夜中のカーボーイのラストパートの長距離バスでの二人の絶望的な逃避行。実は真夜中のカーボーイという映画はすべて長距離バスの中での夢の中の出来事としての出あいと死別だったのでは。バスで偶然となりあわせたヤク中同志。バスの中でキメての。それ以外のニューヨークの地は夢の中の土地で。そこでおこった事も何もかもすべて夢だったのでは。何故なら。はじまりもおわりも長距離バスそして長距離バスだったからだ。すでにジョーの横の席にはテキサス発の時点で瀕死のラッツォがいたのでは。十字架上のキリストのように。フロリダまで。ラッツォはジョーにとっての疫病神だったのか。それともすくいの神だったのか。バス旅行は地獄めぐりだったのか。ジョーがトラウマをこえ人生をあらためるために用意された天国いきだったのか。そんな戯言いいはじめたらきりがないとおっしゃるかもしれない。スケアクロウだろうがイージーライダーだろうがすべてそんな話ですべて夢おちだという事にできてしまうじゃないかとおっしゃるかもしれない。がそれこそがラストがすべて主人公の不条理死なニューシネマのドラッグフィルムとしてのニューシネマのニューシネマたる所以なのでは。そこで実は本作も。いたいたしいそんな真夜中のカーボーイのラストパートだけをきりとったようなドラッグフィルムだったのではないだろうか。冒頭の事故から直接につながっての浜辺によこたわる二人。それが正解なのでは。その間の本編すべては死に際の走馬灯でしかなかったのでは。それもヤクをきめていたが故のバッドトリップとしての。悪夢。そうそんな風に悪夢めいて混乱させられる要因。ひとつとしては幻覚の主体者が周作だけではなく時としてニーナの幻覚も同列でかたられているからなのではないだろうか。ニーナが吸血鬼に変身する時はかならず画面に周作がはいっていないし周作は変身の事をかたらないしおどろいてもいない。これは幻覚がニーナ主観とかんがえなくては整合しない。またsriが全員いつものキャラではない。まるで紋きり型ののっぺらぼうな人物になってしまっている。町田はいつの間にかきえ地元の刑事の方が大活躍するし的矢所長は人のよい子の父親の側面しかみせない。さおりはでてきすらしない。牧野村もまるでその辺の温泉街の田舎の輩にしかみえない。なぜか。それは周作がつくりあげた世界上の存在だからだ。ちょうど惑星ソラリスにでてくるソラリスの海が潜在意識を材料につくりあげたカタチだけのあれのような物。ニーナの義父がころされ義父にニーナが性的虐待をうけていたっぽい事もにおわせる描写があるがあれはあきらかに周作主観のおもいこみ過多の幻覚であり一方義母が島まできてくれて二人をころしてすべての罪をかぶってくれでもするかのような描写あれはあきらかにニーナ主観幻覚である。それだけ義母はニーナにおさない頃からやさしくせっしてくれていたのだろう。実になけてくる。本作。湾岸道路をつっぱしっていてダンプをよけそこねガードレールをこえ崖下の岩場の浜辺へ。実際におきたのはただそれだけ。全編二人の幻覚が錯綜しているだけのドラッグフィルム。ラスト。冒頭とおなじ印象的な音楽がながれる中。砂浜によこたわる二人。そしてスタッフロールテーマソングクレジットバックのあの映像。みちていく血潮のあの鮮烈な特撮イメージあれこそがすべてをあらわしていて本作吸血地獄その物だったのだ。本作。吸血鬼物でもなんでもなかった訳である。それどころかいつもの怪奇大作戦でさえもなかったのだ。ドラッグフィルムきわまっての。とんでもないメタドラマだったのである。スタッフが意識してかせずか。怪奇をかくれ蓑に世にもかなしい青春ドラマこそがここにしかけられていたという訳なのだ。丁度。ウルトラマンなるフォーマットをそっくりかくれ蓑にしたあのやはり世にもかなしき青春ドラマあの帰ってきたウルトラマンのように。

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